瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中島正文 著/廣瀬誠 編『北アルプスの史的研究』(13)

・「黒部の古文書二、三」
 前回の最後に述べたように、この文章の末尾には「(『山小屋』昭和二年一〇月号)」とあるから、1月3日付(10)に引いた「烏水翁のこと その二」の冒頭に「私は昭和の初め頃から黒部奥山の登山史料と取組んでいて、‥‥」とある、「黒部奥山と奥山廻り役」に結実する研究を始めた頃に書いた文章と云うことになる。
 しかしながら、どうもそれではないらしいのである。冒頭部を見て置こう。227頁3行め~228頁1行め、

 長い間岳人諸家の間に黑部峽谷の史實に關し研究論議されることが無かつた樣だ。尤も峽谷それ自體も長い間/人跡未到と言はれ、その探檢には大正の末期から昭和にかけて、異常の努力と巨大な財力を散じて、漸く闡明せ/られた樣な始末であるから、文化の低位は往昔に於ては、この峽谷などは打棄てゝ顧られなかつたらうと今日の/人々が考へるのは無理からぬことである。
 それでも長い間には岳人諸家の間で奥山廻日記を發表したり、峽谷の口碑傳説を研究されたり、又郷土史料の/中から二三の黑部資料を紹介されたこともあつたが、何れも幕末期の断片的なものだつたので、大方の注意を引/かなかつたことは殘念であつた。
 黑部には天正年中の佐々成政の佐良佐良越以外に史實が無かつたが、その廣大な深山地帶が何時の世にも等閑/に附せられてゐたかといふことは、長らく私の疑問として居た所であつた。そのころまだ達者で居た母親が、昔/者だけに變態平假名や古文書の文字の一つも讀まれたので、時々研究の助成をして頂いて居たのであるが、或る/日ゆくりなくこの疑問を母親に語ると、母は笑つて「貴方でもない。そんな事なら正運様の御書き物を調べて見/たらどうです」と云はれて、ハツと氣のついた事は、家祖正運翁が加賀藩山廻役であつたことだ。早速架蔵の古/【227】春亭文庫の一片々々を捜索し、調べ出したのは昭和の初め頃であつたらう。


「昭和二年」に発表された文章のはずなのに「昭和の初め頃であった」とは妙である。巻末の「略年譜」には中島氏の家族について、父母と夫人については何の記述もなく、歿後のことについて「遺族小池氏」が出て来るばかりなので「母親」が「まだ達者で居た」のがいつまでなのか分からない。しかし2021年12月31日付(07)に引いた『杏文庫山岳古史料蔵目』其二の「序」に「昭和七年、母親に奨められて中島図書館を開館した。‥‥」とあるから、昭和7年(1932)には健在であったのだろう。
 「正運様*1」は、越中国西礪波郡下川崎村(現・小矢部市下川崎)の農学者・宮永正運(1732~1803)で、宮永家と中島家の関係、そして宮永家の古春亭文庫が中島家に伝わっていた事情など、ネット検索で何となく見当が付けられたけれどもやはり中島氏に「宮永家系譜」の論文にて明らかにして欲しかったと思う。
 それはともかく、富山県立図書館HPの富山郷土資料情報データベースで中島正文「黒部の古文書二、三」を検索するに、「山小屋」13巻4号(1946/10・朋文堂)22~24頁に掲載されていたことが分かった。国立国会図書館デジタルコレクションでは題が「黑部の古文書」となっている他は同じである。但し[国立国会図書館/図書館送信参加館内公開]なので未見。とにかく「黒部の古文書二、三」の初出は(「山小屋」昭和二一年一〇月号)とするべきで、そもそも「山小屋」が昭和6年(1931)11月創刊なので、昭和2年10月号は有り得ない。
 本書の残念なところは、このような誤記が少ないことである。一部は既に指摘したが、もう少し見て置こう。
226頁6行め「加州の村史に山廻りといふあり、‥‥」の「村史」は、同文の引用の89頁4行めに「村吏」とあるのが正しいだろう。
・242頁4~5行め「‥‥越中四部を三部羽柴肥前守(前田利長)に給り一部佐々に與へられ候し。」とあるが「四部」「三部」「一部」は「四郡」「三郡」「一郡」ではないか。
・403頁2行め「半可通の以而非考證」の「以而非」は「似而非」である。
・456頁5行め「騰写されて」は「謄写されて」。
 出来れば正誤表を準備したいところだけれども、これは原史料を閲覧出来る富山の人にお願いしたい。(以下続稿)

*1:ここだけ「樣」でないのは原文のママ。

中島正文 著/廣瀬誠 編『北アルプスの史的研究』(12)

・越信新道と宮永家系譜の論文構想
 さて、本書所収の文章のうち、最も新しいのは第五章「立山史談」の「立山詣日記――ある放送から抜粋――」で、昭和40年(1965)8月に、中島氏が主宰していた俳誌「辛夷」に発表している。これ以降の執筆がないことについては、廣瀬誠〈編集後記〉586頁4~8行め、

 氏は山岳史研究家で、同時に郷土史研究家でもあった。『水島村史』も『富山県逓信沿革誌』も氏はほとんど独力で*1/執筆された。『小矢部市史』は数名の委員が分担したが、中島氏も私も委員であったので、昭和四十年から四十二/年のころ、よく委員会で同席し、その帰途、高岡まで同行し、車中山岳史談に花咲かせたこともしばしばであっ/た。四十二年八月、委員会の帰途、中島氏はバスから降りそこねて転倒され、私があわてて抱き上げたことがあ/ったが、そのとき「中島さんもお年だな」と思ったことが今も印象深く脳裏に焼きついている。

とあるように『小矢部市史』の執筆、それから2021年12月25日付(01)に見たように昭和43年(1968)4月に中風で右半身不随になってしまったためであろう。

 但し意欲は衰えていなかったようである。587頁11~15行め、

 氏から速達郵便が届いたのは昭和五十四年七月二十四日、何事かと驚いて見ると、「越信新道(針ノ木新道)/と宮永家系譜について二つの論文を書きたいが、君の関係している『富山史壇』に載せてくれるか」とのことで/あった。(半身不随で右手がだめなため、左手でしたためられた、たどたどしい筆跡の葉書。これが氏から私の頂/いた最後の便りとなった)。私の論文を見て「一つ抜けていることがある。いずれ私が書く」とおっしゃった、そ/の針ノ木新道の研究をいよいよ執筆されるのだ。‥‥


 針ノ木新道の件については584頁17行め~585頁3行めに、恐らく中島氏が元気な頃のこととして述べてあった。

‥‥。私が針ノ木新道について小論を書いたとき、中島氏は「君の論文には大事なことが/【584】一つ抜けている」と評された。「どんなところですか」ときくと、「それは言うわけにいかんよ。私の所蔵史料で/なければわからんだろう。いずれ私が書く。それまでは絶対君に見せんぞ」とにこにこ笑いながら言い切られた/ものであった。


 587頁18行め「しかし、氏からはついにその論文は届かなかった。」そして遺宅の調査に入った際、588頁15~17行め、

‥‥、氏の絶筆ともいうべき越信新道・宮永系譜の両論文原稿は発見できな/かった。たとえ未完成であろうともと心に念じ、三回にわたって遺宅を調査したのであったが、ついに見出だ/し得なかったことは今もって心残りである。


 結果論になるけれども、中島氏が半身不随になった時点では早過ぎたかも知れないが、その後、不自由な身体で富山県立図書館の館長室に広瀬氏を訪ね、所蔵史料をいずれ富山県立図書館に寄贈する意志のあることを述べた折にでも、或いは「富山史壇」掲載の相談があった折にでも、多忙な広瀬氏には無理であったかも知れないが、然るべき人物を史料整理の助手として、或いは口述筆記役として、推薦出来なかったものかと思うのである。
 しかし、結局、全く執筆しないままだったのだろうか。それとも、富山県立図書館まで車を運転して付き添っていた「俳句のお弟子さん」辺りがその役を務めて、草稿類を預かっていたと云ったことはなかったであろうか。
 中島氏が最後に構想していた山岳史論文への思い(妄想)は尽きないが、翻って本書所収の文章のうち、最古のものは何かと云うと昭和3年(1928)8月、やはり「辛夷」に発表した、第八章「岳辺余録」所収の「山の話七つ」である。
 こう書くと第一章「黒部奥山と奥山廻り役」に収められている「黒部の古文書二、三」の末尾に「(『山小屋』昭和二年一〇月号)」とあるではないか、と云われそうだが、これは誤りである。そのことにまで筆を及ぼすつもりだったが長くなるので明日に回すこととする。(以下続稿)

*1:この行、句点以降字が詰まる。