瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(315)

 前回まで内容を確認した津留宏『一少女の成長 小さな魂の記録の分析に私が注目したのは、引用されている菊池登喜子(1929.7.13生、仮名)の日記に、赤マント流言が記録されているからであった。
 章立ては3月20日付「津留宏『一少女の成長』(3)」に確認したが、「第二章 小学生時代」の「●4/小学三年生」の節、その初め(65頁14行め~66頁8行め)に昭和13年(1938)5月1日(日)条と昭和14年(1939)2月20日(月)条を引用してその成長振りを確認しているのであるが、後者が正に当ブログで資料蒐集に努めて来た赤マント流言の時期に当っているのである。66頁5~8行め、

  二月二十日  曇後雨、起床七時半  (三年三学期)
 算術のしけんをした。みんな出来たつもりだ。四時間目の綴方の時、私の雪合戦という綴方/をおよみになったのではづかしかった。御勉強の後で那子お姉様におかさを持っていってお上/げした。この頃、杉並に赤マント(注、噂の巨人)が出るさうである。私は何だか心ばいだ。


 66頁15行め「今学年の代表的綴方作品として」、67~69頁3行め「金魚池  (十二月五日綴方作品)」とともに、69頁4行め~72頁1行め「雪合戦  (二月九日綴方作品)」の全文が引用されている。「およみになった」のは65頁3行め「三年から小学校卒業まで‥‥担当」した「加納先生という三十歳ぐらいの女の先生」である。「那子お姉様」は次姉で、長姉はただの「お姉様」である。まぁ、24頁14行め「人名のすべて」は15行め「仮名」なのだけれども。――「傘を持って行って」と云うのは「雨」が降り出したからであろう。
 そして赤マントの記述であるが、この書き方からして、この月曜日の小学校で初めて話題になったのだろう。
 「注」として「噂の巨人」とあるが、同時代資料に見える赤マントは佝僂男と云うことになっており、大小で云えば小さいと思われていたはずなのだけれども、菊池登喜子は(津留氏の見解なのかも知れないが)大きな人と云うイメージを持っていたようだ。
 赤マント流言を書き留めた日記には、烏山奏春が発見した三田村鳶魚の日記がある。


 私もこの日記について、三田村氏がこの流言を知った経路を検証しようと考証を進めていたのだが*1、途中で滞ったままになっている。――結論は出ているのだけれども、日記の引用が殆どない津留宏『一少女の成長』と違って、何十年分もある日記なので確認の対象が多過ぎてなかなか片付かず、再開しようと思ってはいるのだけれども、なかなかその余裕がない。
 それはともかく、この後どうなったのか、赤マントの記述があるのかないのかを知りたいのだけれども、残念ながらこの学年の日記は2日分しか引用されていない。
 菊池登喜子のその後だけれども、『一少女の成長』扉裏に「この書を今は学位をとり、りっぱな大学教授に成長された菊池登喜子氏に捧げる」とあって、昭和55年(1980)の本書刊行時、満51歳で大学教授であったことが分かる。しかし、平成の初年に定年を迎えた人の情報はネット上には乏しく、出来れば3月21日付「津留宏『一少女の成長』(4)」に挙げた、津留氏が提供を受けた資料が見られれば、と思うのだけれども、なかなか探し当てられそうにない。
 しかし今は、せめてものことに「二月二十日」条を抄出してくれたことに、感謝すべきであろう。(以下続稿)

*1:3月23日追記】当初「私もこの日記について考証しようとして、三田村氏がこの流言を知った経路を検証しようとして」としていたのを修正。