瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

田口道子『東京青山1940』(09)

・写真(2)
 前回見たように、田口氏は版元の編集長の提案を承けて、写真蒐集に精力を傾けている。その成果が285頁「〈写真・資料協力〉(順不同 敬称略 カッコ内は掲載ページ)」に纏めて示されている。1月21日付(01)には「写真・資料協力」とは別に、「青南小学校33回卒業」3名と「青南小学校36回卒業」22名が示されているかのように書いてしまったのだが、これはこの頁の前半、15団体・個人3名のうち13団体に山括弧で「カッコ内は掲載ページ」に当たる頁が示されていたので、写真協力に同期生(36回卒業)や上級生(33回卒業)は含まれていないのではないか、と、うっかり勘違いしたからで、実は「あとがき」の前回引用に続く部分、283頁6~9行めに、

 また子ども時代に遠くから仰ぎ見るだけだった小学校先輩の河野哲丸・青木典太両氏から貴/重な写真・資料を快く提供していただき、後輩に対する先輩のあたたかさに感激した。さらに/同期生からの資料・写真の提供と励ましに支えられた。時間をかけて写真を探し出していただ/いた田辺昇學・三田信二郎・宇和川裕子・積田せつ子・西原煌子さんありがとうございました。/‥‥

と、写真の提供を受けていたことが述べてあった。
 私はやはり、同期生などから提供された分についても「カッコ内」に「掲載ページ」を添えるべきだったと思う。そこまで区別する必要があるのか、と云われれば、ないかも知れないのだけれども、何か気になった場合、調べる手懸りになるだろう。
 さて、本文からも提供者が特定出来るのは1月22日付(02)にキャプションを示した63頁上の写真に、61頁12~13行め「昭和十八年/正月のある日」の、62頁3~4行め「小学生/の十二歳」当時の写真が掲載される、61頁10・11行め「クラスメート」の、12行め「宇田川裕子」で、彼女の「家は、電車通りから一筋入ったところにあった写真館」で、63頁下にその写真館の写真も掲載されていた。
 すなわち、61頁の本文・63頁のキャプションには「宇田川裕子」或いは「宇田川写真館」とあったのが、163頁下の写真のキャプションには「クラスメートの宇和川姉妹」とあるのである。おやと思って「〈写真・資料協力〉」を見るに、上記のように「宇和川裕子」なのである。他に「裕子」はいないし「宇田川」と「宇和川」の紛れ易さからして、結婚して「宇田川」から「宇和川」に改姓したと云う訳でもなさそうだ。
 そこでどうも「宇和川」の方が正しいらしいと思って63頁下の写真をよく見るに、2階建の洋館の、2階角の窓の上の外壁に「UWAGAWA STUDIO」の銘板、その下に立体文字で「館 真 寫 川 和 宇」とあって、やはり「宇和川」が正しいと確定出来る。――卒業後50年を経て、いつしか珍しい苗字の「ウワガワ」を発音が近く一般的な「ウダガワ」と記憶違いしてしまい、本書出版準備に際し改めて連絡を取り合ったことで「宇和川」と修正はしたものの、うっかりすると永年の思い込み「宇田川」で書いてしまうようなことになったのでは、と思われるのだけれども。
 ところで、同級生の年齢を昭和18年(1943)正月に「十二歳」としているのだけれども、田口氏たち「青南小学校36回卒業」生は、56頁2行め「生まれた年の昭和六年(早生まれの昭和七年)」とあって昭和6年度生、田口氏は昭和7年(1932)の早生まれと分かるのだが、だとすれば昭和18年1月には満年齢で11歳か10歳、まだ小学校(国民学校)5年生のはずである。数えなら十三歳か十二歳なので、宇和川氏も田口氏と同じ早生まれだったのかも知れないが、しかし今時の「若い人」を対象に考えながら、何の断りなしに数えになぞしないだろうから、やはり単に勘定を間違えたのであろう。(以下続稿)