瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

津留宏『一少女の成長』(4)

 昨日の続きで、第一章「一事例研究の試み」から、津留氏に資料を提供した人物・菊池登喜子(仮名)及び資料の内容と性質について確認して置こう。
 「●1/問題と方法」の冒頭の段落、8頁3~4行め、

 これは一人の少女の成長過程の発達心理学的考察である。私が菊池登喜子 (仮名) という一少/女を、成長史研究の対象に選んだのには若干の理由がある。

とあって、以下4点を挙げている。2段落めは8頁5行め「第一に彼女がその成長過程において、多くの問題性を持っていることである。‥‥」、11行め3段落め「第二に彼女は第二次大戦を中にはさんで、最も時代的に生きていることである。‥‥」として簡単に要点を纏めている。そして4段落めは前半(9頁3~6行め)を抜いて置こう。

 第三は研究にとっては最も重要なことであるが、彼女は幼少の頃より自己の生活を見つめ、こ/れを記録する風があったことである。その多量な生活記録は、綿密で率直で描写的で、かつ文学/的にも優れ、彼女の独特な観察・感想に満ちている。しかも彼女はその記録を他の資料とともに/挙げて私に研究資料として提供してくれた。‥‥


 次の5段落めは全文を抜いて置こう。9頁10~14行め、

 第四に私が登喜子を知ったのは、この研究を始める一年程前からに過ぎないが、引き続き現在/もなお交際を続けている。そして私は偶然、彼女の東京での生活環境を比較的よく知っている。/彼女の学んだ小学校・女学校も知っているし、彼女の記録に出てくる二、三の人物さえも私は個/人的に知っている。これは彼女の記録を理解する上にすこぶる有利であった。かつ研究中、熱心/に協力してくれる登喜子から、不明・曖昧の箇所を随時聞きただすことができたのである。


 研究を始めた時期だが、3月19日付(2)に引いた「改訂新版まえがき」に「この生徒が提供してくれた多くの資料と約一年間専心取り組んだ結果を『一少女の成長を見る』という私の処女出版として」とあった。但し3月18日付(1)に示したように津留氏は初版『一少女の成長を見る』刊行のちょうど1年前、昭和24年(1949)秋には「児童心理」誌にその一端を発表しており、そこから遡って「約一年間」かも知れないし、登喜子が昭和25年(1950)3月に卒業していると思われるので、それまでの1年間、すなわち昭和24年の初頭からかも知れない。
 登喜子を知ったのはさらに「一年程前」だから昭和23年(1948)、早ければ昭和22年(1947)である。登喜子の入学が昭和21年(1946)だから2年生か3年生のときに識り、切っ掛けは説明されていないが資料の提供を受け、恐らく登喜子が「生徒」であった時期、すなわち卒業までに、粗方纏めたのではないか。その辺りは津留氏の在任期間や「児童心理」掲載稿の内容が確認出来ればもう少々明確に出来るかも知れないけれども。
 「●2/資料の検討」は登喜子から提供された資料について、その性格と取り扱いについて述べている。
 ①日記(14頁15行め~18頁10行め)
 14頁16行め~16頁1行め、

 日記は成長史研究に必要な各種の面を最も多く含むものとして第一の主要資料となった。【14】 登喜子の日記は、就学の年の元旦(満六歳六か月)より認し始め女学校卒業以後まで続いている/という点で、記録として最も遠い過去から連続的にその生活過程を示すものであるが、遺憾なが/らかなりブランクな箇所が多い。その原因は病気のためとか、学校に提出する日記を書いている/間、自分の日記の方を止めたとか、また青年期に入ってからは気分的なスランプの故とかなどで/ある。試みにその記録された日数を年度別に示すと左記の通りである。
 小学校一年(昭和十一年) 一九二日
 小学校二年(〃 十二年) 二二八日
 小学校三年(〃 十三年) 二〇七日(夏季日誌紛失)
 小学校四年(〃 十四年) 三五一日
 小学校五年(〃 十五年) 三四〇日
 小学校六年(〃 十六年) 三〇九日
 女学校一年(〃 十七年) 三〇二日
 女学校二年(〃 十八年) 二五九日
 女学校三年(〃 十九年) 二九五日
 女学校四年(〃 二十年) 三一三日
 日記帳は小学校六年までは博文館発行の小学生日記、女学校一年は令女日記、二年は婦女日/記、三年は海軍当用日記、四年は原稿紙を用い、小学一年の初期の鉛筆書き以後は全部インクで/【15】書かれ、計十二冊、きわめて鮮明に残っている。


 「年度別」だから昭和11年(1936)1月1日から7日までの7日分は「小学校一年」の192日には入っていないのであろう。
 ②綴方作品(18頁11行め~20頁9行め)小学校2~6年生の29篇
 ③雑記帳二冊・読方学習帖三冊(20頁10行め~21頁1行め)
 ④図画作品(21頁2~16行め)小学生時代の100枚余
 ⑤成績通知簿(22頁1~8行め)小学校・女学校
 津留氏は、22頁8行め「なお女学校時代の学籍簿も参考にした。」と述べていて、登喜子の在籍した高等女学校の協力も得ているようである。
 ⑥手紙(22頁9行め~23頁6行め)20通
 大半は22頁10~12行め、

 主として青年期の研究の参考資料とした二十通の手紙のうち十六通は、登喜子が女学校一年か/ら三年の間に親友の池内さんにあてた手紙で、特に保存していた池内さんの好意により借用した/ものである。

とあり、残りは23頁3~5行め、

 その他の四通は、登喜子より最初の親友宮崎さんにあてたもの、最近私あてに宮崎さんおよび/女学校後期に登喜子と親交のあった吉木さん、および小学校時代の担任だった加納先生より当時/の登喜子の印象を詳細に知らせてくれたもの各々一通ずつである。‥‥

とあって、関係者にも広く情報提供を呼び掛けていたことが分かる。
 ⑦登喜子の回顧録(23頁7~13行め)
 23頁8~10行め、

 最後に有益な参考資料となったものに現在の登喜子自身の回顧録がある。これは私の求めによ/り現在の登喜子ができるだけ客観的に自分の精神発達の経過およびそれに関係の深い事件や環境/について回顧的に報告してくれたもので、‥‥


 最後に提供された資料の性質について纏めている。23頁14行め~24頁6行め、

 登喜子は以上のような資料を全部、私に提供してくれるほどオープンな態度をとってくれたか/ら、この回顧録にも虚偽や隠蔽はほとんどないものと思われるが、ただ無意識的な自己美化や記/憶の歪みは多少はあり得るかも知れない。しかし登喜子はすこぶる正確な記憶力の所持者で、以/【23】上の資料の一つ一つに、むろん自分も過去を調べた上でだが、詳細な註――例えば当時の年齢や/状況――などを入れてくれたほどだから、私は彼女のはっきりした性格からいっても、この回顧/録は普通の漠然たる思い出話よりははるかに信頼性の高いものであると信じている。そのほか、/研究途上、事実について不明な点は常に登喜子本人に直接たずねることができたし、私の解釈の/若干は、一応、登喜子にも吟味してもらった。そんな場合、彼女は大いに興味と熱意をもって応/じてくれた。


 そしてこの節の最後、24頁14~15行め、

 なお日記・綴方、その他の資料の引例に当たって、人名のすべて、および地名その他の固有名/詞の若干を仮名にしたほかは、まったく原文のままで、従って旧かなづかいになっている。

とあって、ここまでに出て来た人名は全て仮名であることが分かる。ただ、仮名になっている固有名詞のうちイニシャルで示されているものの多くは、容易に推測可能である。(以下続稿)