・五-3-G「デマの傳播」(1)
私が本書を確認しようと思ったのは、2019年4月12日付「赤いマント(175)」に述べたように、ナカネくんの2019年4月2日22:04の tweet に紹介されているのを見たからです。しかしながら、5月3日付「赤いマント(243)」に述べたように、閲覧時間も限られ、居心地も良くなかった(笑)ので、必要最低限のメモで済ませて早々に退去したのでした。
「赤マント事件」については、5月11日付(08)に示した「目次」を見れば容易に見当が付けられるように、「五 日本と宣傳」の章の、「3 國内宣傳の實際」の節の、276頁5行め~281頁「G デマの傳播」の項に出ております。
そこで、276~281頁のみ複写を取りました。しかし古い本で無理に開くと割れてしまいそうでしたので、ノドの余白が詰まっている訳ではないのですが、どうしても左右それぞれ2~3行分、黒くなって読めないところが出来てしまいます。そこで複写で読み得ない箇所を点検して、筆写して補いました。
ついでですから、「F 邦人通信員の進出」の項の最後、276頁1~4行めも打ち込んで置きましょう。
なほ滿洲にあつては、滿洲國通信社が、新京に本社を置き、滿洲各地に通信網を張り、所謂「國/通」の名の下に、ニュースの發信受信を行つてゐる。同盟とは姉妹關係にあり、滿洲國内に於ては/「ロンドン十日發同盟」のニュースも「ロンドン十日發國通」の名の下に、發信され、また滿洲國/内のニュースは、全て同盟を通じて、全世界に打電し撒布されるわけである。
そして276頁5行め、9字下げ2行取りで「G デ マ の 傳 播」とあって、以下次のような本文があります。今回は276頁6行めから278頁5行めまでを抜いて置きます。
口うつしの情報を何よりも尊重する。これが戰時下の何處の國にも現れる人間の弱味である。政/府の發表や聲明を餘り信用せず、新聞や雜誌に書かれてゐる事には、頭から懐疑的にぶつかつて行/く。耳から耳へこつそり傳へられる情報だけが、何か眞らしく、胸をわくわくさせて聞き、また人/に傳へる。戰時下の報道統制等が因をなしてとかく起りたがる通弊である。
日本でもちよい/\この種のデマを耳にする。相當教養のある人が「蒋介石が日本へ來てゐるさ/うですね」等と眞面目に訊いてくると、全くがつかりするが、そんな事になる心理は解らないでも/ない。
この程度なら未だ良いが、廣く世間に流れ渡つて、飛んでもない事になる惡質のデマもあり、こ/れは笑つて濟まされぬ宣傳ゲリラ隊なのである。英國でも一九四〇年七月十二日から「無言部隊」/運動を起し、國民の戰意を喪失させるデマ、間違つた情報、敵を利する正確な情報等を嚴封せよ。/【276】とデマ防壓の防異運動に着手してゐる。
全く亂れ飛ぶ流言蜚語こそは、いま世界各國で取締りに惱む目に見えぬ怖るべき敵である。この/取締りは頗る難かしいものとされてゐるが、流言の本質を究明して、實際に卽した對策が練られなけ/ればならぬ。それならば流言蜚語は如何にして傳播するか、これについて最近發表され、學界の注/目を惹いてゐる新學説に、東洋大學心理學教授關寬之氏の「走行説」がある。
從來、流言や迷信の傳播徑路に關する學説としては、佛國の方言學者ドーザー氏や柳田國男氏等/の主張する所謂「放射説」一點張りで、流言は一箇所から次第に遠方へ、必ず波紋状に擴がると主/張する。例へば現在、東北と九州で非常に似てゐる方言があるが、放射説では、これは關東あたり/の言葉が、次第に東西に擴がつたもので、その傳播徑路は、恰度音波が、波紋状に擴がるのと同樣/だと説明してゐる。走行説はこの放射説に全く反對して、流言は先づ交通機關により、その時々の/條件次第で、一箇所から數箇所に飛び、この數箇所を結んだ多角形で、流言の及ぶ範圍が自ら形成/され、それから寧ろ反射的に、次第に内部に浸潤して來ると實證してゐる。流言に關する實驗例は/
犬と辨當 一人々々保母をつけた三十二名の幼稚園兒に聞える樣に、先生二人が「犬が辨當を/食べて逃げたさうだね」と流言して、遊んでゐた百二十名の園兒の中に放ち、その傳播徑路と流言の/變化を調べたところ、先づ門と畑と小高い丘の三方面に走行、約十分經過した頃には、犬が白犬、/赤犬、白赤の犬、シェパードとなり、次第に浸潤して行くにつれて、二十分の後には、犬が狸や狐/【277】と言ひ傳へられて、百二十名全部に擴がつた。
遠足と子供 小學生三十二名に、「近いうちに遠足に連れてゆく」と流言して、三日間に於ける/流言の徑路を調べると、先づ走行期には、一部の友達とその家庭に傳へられ、浸潤期に入つて一般/兒童に擴がつたのは前の場合と同樣だが、この場合は流言がなんら兒童に不安や恐怖を與へる性質/のものでなかつたので、内容の變化は見られなかつた。
流言・デマの研究で現在「放射説」「走行説」と云った語は使われていないようです。柳田國男(1875.7.31~1962.8.8)の「波紋状に拡がると主張する」説と云えば『蝸牛考』で唱えた方言周圏論が想起されますが、「放射説」を主張したとされる「仏国の方言学者ドーザー氏」はアルベール・ドーザ(Albert Dauzat、1877.7.4~1955.10.31)、その著『言語地理学』は柳田氏の方言周圏論に影響を与えているようです。
私なぞはやはり、2011年2月21日付「図書館蔵書のカバー」に取り上げた松本修『全国アホ・バカ分布考』を単行本で読んだ世代(?)なので、方言周圏論はこれで一応理解したつもりになっていて、肝腎の『蝸牛考』の方はきっちり読んだことがないままでした。今にして取り零した知識の多さに愕然とさせられること少なからず、まさに「蘧伯玉、年五十而有四十九年非(年五十にして四十九年の非を知る)」と云った按配です。
関寛之(1890~1962)は児童心理学者、東洋大学教授・文学博士。現在の長崎県雲仙市小浜町富津出身。兄に芸術教育研究家の関衛(1889~1939.3.6)、弟に民俗学者で兄と同じ東洋大学教授・文学博士の関敬吾(1899.7.15~1990.1.26)がおります。しかし関氏の「走行説」も、ネット検索では俄にヒットせず、国立国会図書館デジタルコレクションで著書が公開になっていますから、細かく見て行けば「犬と弁当」や「遠足と子供」の実験に触れた箇所があるのかも知れませんが、目下、気力が続きませんので後日の課題とします。(以下続稿)
【2022年6月8日追記】その後、関氏の著述に関連する記述を見付けたのだがまだ記事にしないままである。それから村岡花子隨筆集『心の饗宴』(昭和十六年四月十七日 印 刷・昭和十六年四月二十日 發 行・定價一圓五十錢・時代社・6+284頁)263~284頁、7章め「手帖から」13篇中6番め、271頁5行め~272頁8行め「流言は走る」は、書き出し(271頁6~7行め)「 いつだつたか、東洋大學の關教授に依つて唱へられた流言走行説は今の旅行季節にあ/たつてもう一度考察されていいことである。‥‥」から察せられるようにこの説による自分の意見を述べたもので、関氏の走行説はそれなりに影響があったようである。