東京都の公立図書館は、当初、緊急事態宣言が5月末までの予定だったので、解除後も5月はそのまま休館して、6月から再開のところが多いようである。そしてHPで私の「利用状況」を確認するに、都内の図書館は5月に返却期限が来て、全て延滞になっている。すなわち、休館に伴う返却期限の延長は行わずに、開館したら1週間を目安に返却するように、と云う対応を取っているのである。それに対して都下の図書館は6月中旬まで返却期限を延長している。
私は4月6日から5月30日まで電車に乗らなかった。上りの電車は3月21日から乗っていない。今の都内の感染確認数は人口で割ると宝くじ並に少なくなっている、と云う人もいるが、宝くじは毎日抽籤していない。それに、どうも、今年は花粉症の時期から胸の苦しさが格別なのである。年齢のせいかも知れないし、うっかり大量に吸い込んでしまったことがあって、その後遺症なのかも知れないが、いっそ、罹患して少々息苦しいくらいの軽症で、抗体があれば、と思ってしまうのだけれども、発熱はなく、むしろ昨日も今日も一昨日も朝早くに目が覚めて、低体温なのである。だから検査の望みも持てない。常にどちらか片方の鼻腔が詰まったままでそれで息苦しいのかも知れないと思って、例年花粉症の時期だけで止めてしまう耳鼻科通いを今も続けているのだけれども、処方された薬では埒が明かない。とにかくそんな按配なので、余り電車に乗りたいと思っておらず、乗る用事もなかったので乗らなかった。しかしこれから乗らざるを得なくなるし、家人は何度も都内に出ているのだけれども。しかし、今は戦場の兵士が陥るように、これまで無事だったから、今後も乗り切れるだろうと云う根拠なき安心感みたいなものが蔓延しているだけのように思える。でも、兵士が1発でも急所に当たればそれでお終いであるのと同様に、まぁ必ず死ぬ訳ではないが、うっかりもらって入院するようなことになれば、相当面倒なことになる。だから、なるべくうっかりしないように過ごしたいのである。
それで「混雑レーダー」を参照しつつ、自転車で都内の図書館に、近日中に返しに行くことにした。18時10分現在で東京駅・新宿駅・池袋駅・秋葉原駅、そして横浜駅周辺が赤く表示されている*1。そして埼玉県の南部、千葉県の北西部、神奈川県の相模川の西岸(厚木・平塚)辺りまでが、国内でも非常に混んでいることが分かる。
出来れば1館だけ、混雑する地域を避けて通えそうなところでだけ借りて*2、他の何館かはそもそも在住者以外の貸出を再開していないところも多いらしいので、今度返してしまったらそのまましばらく利用せずに過ごすことになりそうだ。何とか山手線まで行かずに済ませられそうである。
さて、そうなると2011年1月13日付「図書館派の生活」に述べたような、図書館から多くの本を借りてきて、あれこれ比べてみる、と云う生活は成り立たなくなりそうだ。2011年2月22日付「上野顕太郎『帽子男』(1)」の前置きに述べたように、都内は区立図書館が多く、貸出冊数も多い。だから2011年1月26日付「「改版」について」みたいな、単行本と文庫本を比べるような発想にもなったのである。最近は同じ自治体の図書館で同じタイトルの本を重複して借りられなくなってしまったが、以前はそうでもなかったので、同じ区の図書館から同じ文庫本で改版・改装されたものを借りて、別の複数の区の図書館でも探せば忽ち5冊くらい並べられる。
今後は、このような行き方は難しくなる。コロナウィルスが何とかなれば、また戻せるかも知れないが、ここらが潮時かも知れない。都内の図書館は東京に出て来て以来の馴染みだけれども、今後は職場の近所か家から自転車で出掛けられる範囲で何とかすることとしよう。一応、見られるものは一通り見て、と思っていたが、ある程度のところで済まさざるを得ない。何を見たのか、明示して、不備そして無知についてはご海容を願う次第である。
こうなったら東京にいる意味もなくなって来た。何処か田舎に引き籠もって、院生時代の研究成果や、学部生時代以来の読書メモ、図書館派だから多くはないがそこそこある蔵書、それから104歳の義理の祖母の数千冊の蔵書の整理を、行く行くは任せてもらえるなら、田舎に倉庫みたいな場所を借りて、折角の物を一挙に古本屋に二束三文で買い叩かれてしまうのも癪だから、丁寧にメモを取りながら永久に保管する訳にも行かないからネットで順次売却して(買取りをしなければ古物商にならない)しっかりした蔵書目録を拵えて手向けとしたい。もちろん私の方が義理の祖母より長生きしないといけない。ただ、田舎に引き籠もる場所も、仕事の当てもない、運転免許も持っていないし、当面、いや下手をすると生涯、都下にいることになりそうなのだけれども。
これを機会に、一極集中が是正されると良いのだ。今の、地方の高校3年生は、東京の大学を受けるだろうか。受験がまともに行われるか分からないし、入試・入学の時期に移動が出来なくなるかも知れない。東京では感染の確率は高く、家賃も生活費も高い。自宅から通える大学、いざとなったときに移動出来る地方の大学に行った方が良いのじゃないだろうか。そして私のような者でも、地方都市で、そこそこ生活が成り立つような時代が来れば、良いと思うのだけれども。
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何だか「戻って来た」「良かった」みたいな報道が多くなっているが、まだ何も解決していないのではないか。オリンピックに向けて練習を再開、というニュースも「良かった」「戻って来た」と云う文脈でなされるばかりで、Dave Spector がアメリカではオリンピックは放映権を持っているメディア(だから夏にやらざるを得ない、と云うことになっているあそこ)だけのもので、放映権のないメディアにとっては余所事だから普通に批判出来る、しかし日本では主要メディアの全てがオリンピックと絡んでいるから、オリンピックを特別視して殊更に褒め称えるような報道ばかりになっている、と云うようなことを言っていたが、昨年の大河ドラマ「いだてん」を見ても、オリンピックがメディアと連んだことで(そして政治とも大いに連んだことで)発展してきた経緯から、オリンピックについてネガティヴな報道が出来ない。開催出来るのか、早めに止めにした方が良いのじゃないか、と少なからぬ人が思っているはずだのに、頭の良いはずのメディアにいる人々は染め上げたように「期待」一色なのである。いや、これは別にスポーツに限らない、政治も経済も、力を持っている者に対してネガティヴな報道が(特にNHKには)殆どない。昔からそんな自由な時代はなかった、常にそれなりに息苦しかったであろうが、今もやはり息苦しい、いや、特に息苦しくなっているように思うのである。