父は昭和が終わったときに丁度満50歳で、当時管理職として多くの部下を使っていた。昭和の管理職らしく、年に1度自宅に部下たち10余名を招いて、母に食事を作らせてもてなしていた。今話題(?)の夜の街にも部下を自腹で連れて行ったりしていたらしい。バブル期に通っていた北新地のバーのママから、ママが引退するまでの永年の間、「また届いた」「一体当時いくら使ったんだろうね」との会話を私と母の間で為さしめる程、バレンタインのチョコレートが毎年送られて来たのである。そして、当時は5月20日付「周防正行『シコふんじゃった。』(09)」の【2020年6月1日追記】にも触れたように、女性社員は結婚までの腰掛けで、寿退社するものだと思われていて、多分その通りだったのだろう。仲人をしたこともあったようだし*1、そうでなくても殆どの女子社員が「お局」になる前に結婚してしまった訳だから、結婚式に招かれることは度々で、そしてその度に引出物をもらうのである。そして、それは大抵食器に相場が決まっていた。
しかし、平成元年(1989)公開の『ファンシイダンス』の柄本明の女性社員に対する姿勢と、平成3年(1991)撮影の『シコふんじゃった。』のヒロイン清水美砂と、柄本明演ずる指導教授の態度とでは、恐ろしく懸絶していることが分かる。旧弊な大企業と、一応実力主義と云うことになっている学界との違いもあるのかも知れないし、どちらもヒロインだから毅然と、或いは颯爽と乗り越えてしまえるように見えただけかも知れないが、確かに平成になって、東京に出てから、そのようなことが少なくなったようにも思うのである。
その平成初年に住んでいた、2019年12月5日付「芥川龍之介旧居跡(16)からしばらく回想した都内のお屋敷(!)では、2019年12月7日付「芥川龍之介旧居跡(18)」に述べた1階東の8畳間の押入れに、引出物がぎっしり詰まっていた。顔も知っている夫の部下たちが吟味して選んだ引出物だからおいそれとは捨てられないが、そんなに多くの皿や器を使う趣味もないので、箱のまま積み上がっていて、そして退去に際して、転居先にはとてもでないが収まらないので、その殆どを処分したはずである。
私はそんなに結婚式に呼ばれたこともないが、今世紀に入ってから出席した僅かな機会の両方とも、女子高の同僚のときも、義理の妹のときも、カタログだった。
何故昭和の結婚式はあんなに陶器を用意したのだろう。いや、必ずそうすることになっていたのだ。そして収納スペースの多いマイホームを定年までのローンを組んで建てることにもなっていた。だから都内や都下の地価が上がってから、一戸建ての持ち家を新幹線通勤までして持とうとしたのである。
しかし、それ以前に1回だけ出席した、大学のサークルの友人の結婚式では、引出物をもらったらしいのである。「らしい」と云うのは記憶がないからで、でも、物から判断するに、2014年10月31日付「岸田衿子・岸田今日子『ふたりの山小屋だより』(4)」の冒頭に触れた、平成10年(1998)10月10日のその結婚式でもらったとしか考えられない。
今年に入ってから、ぼちぼちと不用品の整理をしていて、一向に捗らないのだが、階段下の物置に段ボールの箱(縦33.4×横18.0×高7.5cm)に入った、皿付きのティーカップ1対があった。如何にも引出物と云った風情で、しかし熨斗紙も掛かっていないので由来ははっきりとは分からない。
箱の側面に貼付されているシール(2.0×7.5cm)は周囲が茶色の枠(0.1cm)で、四隅が丸くなったその内側、やや上側に茶色の横線(6.6cm)その中央(3.3cm)から上に縦線(0.7cm)が伸びる。横線の左右(0.3cm)と縦線の上(0.1cm)は外枠とは離れている。左上に茶色の筆記体で「Noritake 」右上に黒の細いゴシック体の印字で「碗皿ペアーセット」下の広い枠、左にゴシック体で濃く「Y6787」中央から右にかすれた緑色の印字で「9438」右下隅に小さく「JAPAN」とある。
入っていた「● お取り扱い上の注意 ●」の2つ折(9.0×7.5cm)横組み4頁(頁付なし)の栞の、4頁めの最下部右寄りにごく小さく「98.5.20D」とある。やはりこの年の秋(都内の旧居退去後)の、友人の結婚式の引出物で、それでわざわざ実家から持って来たのだけれども、結局使う機会もないまま、箱もカップも薄汚れてしまったので、皿は使わないし、普段もっと入るマグカップを使っているし、客が来ることも絶えてないので、捨てることにした。当時招かれた連中の中に誰か、綺麗に保存している人もいるかも知れないし。しかし、本当に、何でも鑑定団ではないが、田舎の蔵のある家を前提とした習慣が、つい近年までうっかり残ってしまったとしか思えない。
・Noritake プリマチャイナ トゥルーラブ ティー・コーヒー碗皿 ペアセット Y6787/9438
栞だけはアルバムに挟んで置いた。気が向いたらもう少しメモして置くこととする。
この友人とは、室町時代前期から30代以上続く旧家だと云う実家に遊びに行ったり、新婚当時のマンション(だったと思う)に行ったり、かなり親しくしていたのだが、向こうは忙しい公務員で、こちらも時間に余裕のある院生から働き始めて忙しくなるにつれ疎遠となり、マンションの近所に建てた新居には行く機会もなく、年賀状もこちらが出した返事として来るようになり、そしてある年、年末に疲れ切っていたせいか、住所を書き間違えて、大した間違いではなく郵便局で何とかしてくれても良さそうな程度の間違いだったのだけれども「あて所に尋ね/あたりません」の印を捺いて戻って来たのである。もちろん向こうからは来ていない。こうなると改めて出すのもどうかと思われて来て、そのまま音信不通になってしまった。実家の方からは、喪中の葉書をもらったことがある。(以下続稿)
*1:仲人をしたと思しき静岡時代の部下からは、その後も季節ごとに新茶や温州蜜柑が送られて来てもう40年以上になる。もちろん、相応の返礼はしていると思うのだけれども。