瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

阿知波五郎「墓」(16)

 昨日、twitter を始めた切っ掛けを、意図せざる「閉じ込められた女子学生」記事閲覧数の激増にあるように書いてしまったのですけれども、これは理由の1つではありますが、主たるものではありませんでした。その、主たるものは昨年4月に縷々書いたので繰り返しませんが、昭和14年(1939)の赤マント流言について、既に当ブログに報告済みであった事例を別に報告しようとしていた人がいたので、慌てて何らかの広報を行わないと同様のトラブルに今後も見舞われかねない、と思ったからなのでした。
 赤マント流言も、2013年10月から2014年2月まで、ほぼ毎日記事にしていた時期には、当時あった Google の「ブログ」検索機能で上位に(新着順ですが)ヒットしたのですが、この機能がなくなってから Google では全くヒットしなくなり(「赤マント」もしくは「赤いマント」で検索して辿って行って、当ブログに辿り着いた記憶がない)上記のトラブル以外で閲覧・利用された形跡は殆どありません。そこで twitter で宣伝しようと思ったのですが、赤マントは何かのキャラクターになっているのか、毎日多数のネタ投稿(?)があり、私が真面目に投稿したところですぐに埋没してしまいそうで、結局、僅かに2019年7月29日の7件の tweet「中島京子『小さいおうち』の赤マント」と、2020年5月25日の tweet「同盟通信社調査部 編『國際宣傳戰』」について tweet したのみです。
 しかし、そうしている間にも、青ゲットの殺人事件とか、二・二六事件とか、昭和11,2年頃だとか、赤マント流言に(影響を与えたかも知れないけれども)直接関係のなさそうな由来説やら、誤った時期についての tweet が複数の人によって量産されていて、――見ているうちに、まぁ良いか、と云う気分にさせられて、止めてしまうのでした。
 ですから、今回の件についても、実は私は腰が引けていまして、返信や retweet や「いいね」は致しませんが、私なりに感謝申し上げておることだけ、ここに申し述べて置きます*1

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 一昨日の続きで、ちくま文庫『絶望図書館――立ち直れそうもないとき、心に寄り添ってくれる12の物語の編者・頭木弘樹が「[閉鎖書庫 番外編]」として、記憶に基づいて「入れられなかった幻の絶望短編」と題して書いた、阿知波五郎「墓」の粗筋について、今回は後半(346頁1~12行め)を抜いて置こう。

【E】ところが、だんだん様子がおかしくなってきます。飢えが進んでくるにしたがって、/さまざまな身体の変調が起きてきます。このあたりは作者が医師なので、描写がリア/ルで、読んでいるほうも、こんなことになっていくのかと驚かされます。
【F】もう愛情どころではなくなります。飢えの苦しみがどんどん大きくなってきて、心/を占めていきます。他のことはどうでもよくなっていきます。
【G】「ひもじさと寒さと恋とくらぶれば恥ずかしながらひもじさが先」という江戸時代の/狂歌がありますが、もう愛なんて消し飛び、飢え以外のことは考えられなくなります。*2
【H】こうして、医学的な正確さと詳細さで、飢え死にまでの女性の苦しみ、叫びがノー/トに記されていきます*3
【I】どんでん返しなどはありません。そのまま死んでしまいます。
【J】じつに怖ろしい話です。ただ、生理的苦痛がいかに大きく、絶対的であるかを描き/きっているところは、ある種の爽快感もありました。


 【E】冒頭の「ところが」は、もちろん前回引いた【D】に、主人公の女性によって、ノートに「飢えなんかに負けない愛がつづられ」る、と云う前段階を踏まえている。すなわち、頭木氏の記憶している展開としては、閉じ込められた女性は、最初は「愛>飢え」だったのが、【E】「さまざまな身体の変調」を経て【F】では「愛情<飢え」と逆転し、ついには【G】落語に度々引かれる狂歌のように「・飢え」だけが残り、後は【H】「飢え死にまで」ひたすら「苦しみ、叫び」を書き連ねつつ、【I】「そのまま死んでしま」う、と云うことになっている。
 しかし、これは、記憶違いである。――閉じ込められてから遺書を書き始めるまでの経過は2016年10月11日付(06)に概略を示して置いたが、改めて、もう少し詳しく見て置くこととしよう。
 まづ「飢え」についてだが、2日めの「七月二十日。」条(421頁9行め~424頁11行め)の最後(424頁11行め)に、

 しまは今、堪えられなくなって頭を振った。流石に空腹を感ずる。見渡す限り、本、本、本……。

とあるのがその初出である。この日はまづ。勤務先の青葉保育園での園児との「恋を知らなかった一年前までの日々」を回想している(421頁14行め~423頁16行め)。そして自分が恋に落ちたことに初めて気付いたらしき園児、戦災浮浪児で名前が分からないので仮に園名を姓にした、青葉太郎のことを思いやり(423頁17行め~424頁10行め)、園を後にしたときのことを、424頁6~10行め、

……今日も今日、休暇を/貰って園門へ出ると、太郎は後から追いかけて来た。お母ァさん何処へ行くの。伊豆の兄ちゃんたち/のおうちを廻って帰るのよ。お土産持って来ようね。すると太郎はふて腐って、違わァい。嘘云って/らァ――そう云って、園舎の方へ走り去って了った。二、三丁行って、ふっと振返ると、太郎が一人/だけで窓から頰杖を立ててじっと見送っている……。

と回想する。表向き、伊豆に里子に行った旧園児を訪ねることにしてあったのは、2016年11月1日付(08)に引いた「七月十九日」条の最後に見えていた。それはともかく、――この太郎の自分を咎めるような態度に、太郎に嘘をついてしまった自分に、424頁11行め「堪えられなくなって」そこで「空腹を感ずる」のだが、それにしても「今日も今日」とは変である。この日の冒頭(421頁10~13行め)は、

 夜が明けると微かに蟬の啼き声が聞える。晴れた暑い朝であるであろう。時と共に蟬の啼き声がし/げく、はげしくなって行く。午前十時頃、ふと子供の声が聞える。その意味は判らないが、休みにな/った構内へ、子供達が入って、野球でもいて居るらしい。犬がときどき吠えて居る。如何にも愉しそ/うな笑い声も聞えて来る。

となっていて、閉じ込められたのは「昨日」なのである。――ここも或いは、2016年10月6日付(03)に引いた、鮎川哲也が気付いた本作の矛盾点に含まれていたかも知れない。しかし、これは「昨日」にすれば良いだけだから訂正は簡単である。(以下続稿)

*1:6月17日追記】私が腰が引けてしまう理由は、やはり当ブログの方針、2013年5月2日付「御所トンネル(5)」の最後や、2015年10月18日付「試行錯誤と訂正」に書いたように、――最終報告ではなくて、とにかく調査過程を示して置く、と云う方針にあるように思いました。日々、ストックのない状態で、瑣事まで確認して行くので、期待させてもその通りに展開させられません。返却期限が来て図書館に返してしまって中断したり、飽きてしまったり他の件で直ちに取り上げるべき資料を見付けたりして、中絶してしまった記事も多々あります。ですから、今回、twitter が切っ掛けですからこのように派手な取り上げ方になったのですが、一通り上げてしまってから、twitter に及ぼせば良かったと反省しております。そして、どうやら落ち着いて来た様子なので正直ほっとしております。しかし、ある程度成果が上がったと思われる、赤マントも蓮華温泉も、女子美術大学にしても、最終報告を担当させてくれそうになったことは、ついぞないのです。‥‥あ、いえ、赤マントと女子美術大学は、そもそも twitter に取り上げておりませんでした。これらこそ、一通り上げてしまってから、twitter に及ぼすつもりです。

*2:この段落は字下げなし。

*3:ルビ「しる」。