瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

小泉二三『思い出の鑓水』(2)

・地方文化叢書1『思い出の鑓水』(2)著者①
 印刷の「清水工房」は、充実したホームページを作成していて、その「会社案内」に拠れば昭和44年(1969)、軽オフセット印刷機をメインにした創業で、翌昭和45年(1970)に、庶民が自分の生きてきた事実をありのままに記録する「ふだん記」運動の創始者橋本義夫に出会い、橋本氏が指導する「ふだん記」の印刷を担当することになり、ガリ版やタイプ印刷と違って写真の印刷が可能な軽オフセット印刷によって、その記録性を高めることに貢献した、と云ったようなことが書いてある。
 すなわち、本書はその軽オフセット印刷機によって、写真を主にした小冊子として編集されたものなのである。但しこの「地方文化叢書」は続刊されなかったらしく、本書の存在も殆ど忘れられたようになっている。著者の小泉二三も他に著書がなく、全く知られていない人物と云って良かろう。そこで、本書から窺われる範囲で、どのような人物であったかを略述してみよう。
 まづ、35頁下段の「小  歴」を抜いて置こう。

明治三十九年(一九〇六)十一月二十七日
東京府南多摩郡由木村鑓水の揚糸場にて生る。
父政吉、母 サク の次男
鑓水小学校を卒え、大正八年東京府立織染学/校入学、十三年卒業。
軍隊生活及 放浪生活の後、東京府へ就職。
昭和十二年応召上海攻防戦参加。


 なお「二三」の読みは奥付の「著者」にルビ「に ぞう」とあって判明するが、『ふるさと板木』に似た名前の人物が登場していた。10月11日付「ふるさと板木編集委員会『ふるさと板木』(1)」に見た11~23頁「家と人と」の、番地順なのでその筆頭、11頁下段に掲載されている「小泉一二」家で、戸主夫妻、長男夫妻、五男、長男の息子3人の8人家族であるが「戸主  一 二 66」とある。年齢は10月12日付「ふるさと板木編集委員会『ふるさと板木』(2)」に推測したように、どうやら昭和44年(1969)の満年齢らしいから、明治36年(1903)生、と云うことになる。そうすると「次男」である「小泉二三」の3つ年上の長男ではないか、と思われるのである。
 兄のことは、29頁「製糸工場と揚糸場と用水池と」右下の文章の前半、1~6行めに、

 昔お蚕の盛んだった頃女工さんを五十人も使っていた/工場で繭の乾燥場もあり矢張り加藤さんが責任者であっ/た、父が現場監督みたいな事をしていた。又揚糸場*1は祖/父と父が初代としてやっていたそこは兄と私と妹が生れ/たところでもあったが次に親せきの鬼子十郎さんに引き/ついだ。‥‥

と見えている。「鬼子十郎さん」は小泉栄一の祖父である。
 なお「小泉一二」家の所在地は大栗川の北側、すなわち板木谷戸ではない。しかし『ふるさと板木』に板木谷戸の住人のように扱われているのは、小泉家の分家の故であるらしい。
 すなわち16~18頁「板木谷戸」の16頁下から17頁右下の説明文にも、多くの家が取り上げられていて、著者が板木谷戸にそのルーツを有するらしいことが察せられるのである。16頁下段16行め~17頁下段8行め、

 珍らしい曲り屋の醤油屋/の分家がありよく遊びに行/き土間に掘られた火城*2(囲/炉裏)で冬は暖をとらせて/もらった記憶がある。水源/地は三ケ所もあり水甫と穂/成田と浜道のそばにあった。/【16】祖父の生れた家は都の文化財となりそのまゝおかれ、親/せきの勇二さんの家は野猿峠の大学ゼミナーへ移転が決/っているとか又井上さんの家は三百年もたった昔の土台/もない文化財的な家なのに移築できないので取りこわし/になるとか、八十さんの家も昔のまゝの家であるのに取/りこわされる運命にある。北の街道は今でも村一番の素/封家であり長屋門の脇に肉桂の大木がありよく小さい時/に‥‥*3


 もう少し「北の街道」についての記述が続くが割愛した。『ふるさと板木』を見るに14頁上「大塚勇」家が「家名 北の街道」である。
 「曲り屋」は『ふるさと板木』22頁上「小泉利三郎」家で、本家の「醤油屋」は19頁上「小泉茂」家「家名 しょうゆや」であろう。
 「都の文化財」とは東京都指定有形民俗文化財(昭和47年4月19日指定)の小泉家屋敷、『ふるさと板木』16頁下「小泉隆造」家でその長男が『ふるさと板木』の編集責任者小泉栄一である。そこが「祖父の生れた家」と云うのであるから著者は「家名 しも」の「小泉隆造/栄一」家の分家の出と云うことになる。
 世代からすると、著者の「祖父」は「鬼子十郎さん」の父・初右ェ門の弟であろうか。そして「父」の政造が「鬼子十郎」の従弟であったのだろう。
 「勇二さん」は『ふるさと板木』17頁下「小泉勇二」家である。「大学ゼミナー」は大学セミナー・ハウスに違いないであろうが、現在の大学セミナー・ハウスに古民家はないらしく、移築が実現したのかどうか、分からない。
 「井上さん」は『ふるさと板木』18頁上「井上芳隆」家らしい。18頁下「井上武男」家の可能性もあるけれども、前者の方が「移築できない」程の古い家、と云う条件に合いそうだ。
 「八十さん」は『ふるさと板木』20頁下「宮崎八十三」家である。
 いや、『ふるさと板木』と対照することによって判明することはこれに限らない。『ふるさと板木』84~86頁「はやしことば 板木谷戸名取抄」は、84頁上段2~3行め、

 明治末から大正初期のことと思うが、八王子市鑓水板木谷戸の各戸の/主人を、一言でズバリと表した痛快な「はやしことば」があった。‥‥

と云うもので17人が取り上げられているが、これについて、84頁上段9~12・16~18行めに、

 今、古老に聞きたずねて調べ、記録して見ると、当然なければならな/い宮崎利吉・小泉政吉の二人の分がない。或は現在では忘れられてしま/っているのかも知れないが、わたしの想像ではこの言葉は、時の鑓水学/校長宮崎利吉の考えたものではないかと思う。‥‥(略)‥‥。故に宮崎先生自身の分がないのであろうが/小泉政吉の分については板木谷戸の人ではあるが、家が隣接の東谷戸の/区域内に一軒だけ飛び離れていたので省略されたのではないだろうか。

とある。これにより区域外の「小泉一二」家が『ふるさと板木』に収録されている理由も理解出来るようである。(以下続稿)

*1:ルビ「あ げ ば 」。

*2:ルビ「ひじろ」。

*3:ルビ「そ/ほう・につき /」。