瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(39)

・『書物通の書物随筆』第一巻『赤堀又次郎『読史随筆』』(9)
 斎藤精輔『辞書生活五十年史』に関しては昨日で切り上げようと思っていたのだが纏まらなかったので、続き。
 稲村徹元(1928生)とは何処かで見たような名前だと思ったら、2022年11月23日付「清水成夫『八王子ふるさとのむかし話』(4)」に触れた稲村坦元の養子だった。その稲村氏が「昭和三十年十月の上野松坂屋の即売会」で入手し、森銑三三省堂の日本百科大辞典」を読んで森氏に貸与した謄写刷『辞書生活五十年史』は、小出昌洋「編後附言」の云うように森氏の歿後、森氏が希望していた活字本での刊行が実現している。
・ビブリオフィル叢書『辞書生活五十年史』一九九一年十一月二十日初版第一刷発行©・定価2000円・図書出版社・157頁・四六判上製本
 原本は国立国会図書館にも所蔵がなく、大学図書館にも所蔵されていない。僅かに国立国語研究所が所蔵しているのみである。
 しかしながら、流石と云うか「九五」頁の一部が辞書校正者境田稔信(1959生)の tweet に掲出されている。


 境田氏は今月1日に終了したTV朝日「タモリ倶楽部」の、2018年1月26日放送「こんなに集めてど〜するの !? /潜入!辞書コレクターの魔窟 境田邸」で見たことがある。起きていられないから録画したので、探せば何処かにあるはずである。それはともかく、この tweet により、活字本(ビブリオフィル叢書)が原本の誤りもそのまま、「凡 例」に断った表記替えを除いてほぼ忠実に活字化していることが察せられる。
 とにかく当ブログでしばしば注意を促している「回想」だから、そのままは使えない。出来れば当時の記録、さもなければ他人の回想や後年編纂された社史その他に傍証を探す必要がある。探せなかったり探す暇がなければその旨を断って使用すべきものである。
 さて、斎藤精輔の辞典編集については「三省堂 辞書ウェブ編集部による ことばの壺」の「ことばのコラム」に連載されている、雪朱里「辞典について[「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン]」の、2018.9.26.「第5回 『日本百科大辞典』という冒険2018.10.10.「第6回 採算度外視の「いいもの主義」2018.10.24.「第7回 経営崩壊」の3回に、三省堂側の資料を用いて、本書は参照せず(!)に、三省堂の立場からやや批判的に書かれている。この連載は一昨年、単行本『「書体」が生まれる ベントンと三省堂がひらいた文字デザイン』に纏められており、『日本百科大辞典』関係の箇所は第一章「三省堂の創業」3~5節めとして収録されている。 今度図書館で探して見よう。
 また、本書のについては、HN「higonosuke」のブログ「黌門客」の2020-11-29「斎藤精輔が語る怪談」の後半に、本書の「意外な一側面」として「ごく自然」な感覚として語られている「怪異譚」が紹介されている。私としては「母」の「投身自殺」の「後日譚」だけではなく、行方不明になった母の居場所を岩国からわざわざ周防大島の「名だたる市子」に尋ねに行き、その「神降し」のお告げの通りの場所で見付かっていたと云う件(20頁4行め~21頁10行め)が興味深い。
 それでは本題に移ろう。前回引いた佐藤哲彦「解題」は、ほぼブログ記事【⑧神保町】に拠って書かれている。その記事、HN「神保町のオタ」のブログ「神保町系オタオタ日記」の2011-07-03「赤堀又次郎と田中稲城」は、『明治人物夜話』の「斎藤精輔氏の自伝」の「六」節前半に基づいている。単行本153頁下段21行め、2行取り4字半下げでやや大きく「六」とあって(『新編』234頁9行めは2行取り7字下げでゴシック体)、22行め~154頁上段11行め(『新編』234頁10行め~235頁4行め、改行位置を「|」で示す)、

 中井氏についでは、嘗て私もその知を得てゐた赤堀又次/【153】郎翁のことが、簡略ではあ|るが記されている。
「是より先、若宮町時代に、赤堀又次郎入所し、種々有/益なる助言を与へ、東五軒町|時代にも引続き来所し、其薀/蓄を傾けて余を援助せられたり。余一日帝国図書館長田中/|稲城氏に会したるに、氏曰はく、赤堀氏は頭脳明晰、博覧/強記、当世に冠絶す。君が同|【234】氏を獲たるは、劉邦張良を/獲、劉備孔明を獲たる以上に君の事業に光明を与ふるな/|らんと。」*1
 赤堀翁は、百科大辞典の執筆者の一人だつたのである/が、同辞典には、その編輯|所に籍を置いて、内から斎藤氏/を助けたのであつた。‥‥*2


 前置きの文は【⑧神保町】には抜かれていない。そしてこれには続きがあって、実はそこに赤堀氏の伝記上の問題点を解決するヒントがあるのだが、残念ながらそこは取り上げず「『百科大辞典』とは三省堂の『日本百科大辞典』全十巻(明治41年大正8年)のこと。」と註記するに止めている。
 佐藤氏はこの記事を見ているのだが、まづ「斎藤精輔」を「斎藤清輔」と誤っている。それから明治41年(1908)から大正8年(1919)と云う『日本百科大辞典』の刊年から赤堀氏の陸軍教授時代の「後」のこととしているのは、かなり雑な処理と云うべきである。
 森氏の引用は【⑧神保町】に指摘されているように、本書42~152頁「第八章 辞書編輯奮闘時代」の107頁10行め~130頁「⒞ 東五軒町時代」の冒頭近く、1牛込区東五軒町の邸宅について説明し、ここが百科辞典編集所だけでなく、三省堂創業者亀井忠一(1856.六.三十~1936.1.30)が大橋新太郎(1863.七.二十九~1944.5.5)津村重舎*3(1871.七.五~1941.4.28)山本留次(1872.九.二十八~1952.9.28)らと設立した株式会社東亜公司の「支那向の書籍」の編輯所も兼ねたこと、そして百科大辞典の新たな国史・科学・国文学・外国文学の担当者とその推薦者を挙げた末に、108頁15行め~109頁3行め、

‥‥。これより先、若宮町時代に、赤堀又次郎入所し、種々/有益なる助言を与え、東五軒町時代にも引続き来所し、その薀蓄を傾けて余を援助せら/【108】れたり。余一日帝国図書館長田中稲城氏に会したるに、氏いわく赤堀氏は頭脳明晰、博/覧強記、当世に冠絶す。君が同氏を獲たるは劉邦張良を獲、劉備孔明を獲たる以上/に君の事業に光明を与うるならんと。

とある。これに続いて、伊藤博文の秘書古谷久綱(1874.6.17~1919.2.12)が百科大辞典政治外交の執筆者であった縁故から初代統監として韓国(大韓帝国京城に赴任する伊藤氏に随行して明治39年(1906)2月から4月まで視察旅行に出掛けたことが110頁9行めまで述べてある。
 赤堀氏の名前が出て来るのは先の引用部のみで、いつまで編輯所に来ていたのか、佐藤氏が「この後」として挙げている刊行期間まで『日本百科大辞典』に関わっていたかは『辞書生活五十年史』を読む限りでは分からない。
 では、いつから赤堀氏が関わりだしたかと云うと、102~107頁9行め「⒝ 牛込若宮町時代」により大体の見当が付けられる。すなわち「若宮町時代」と云うのは、102頁12行め「故郷純造氏の住宅、今はその息郷誠之助氏の所有」の13行め「売家」を14行め「買人の有るまで」との条件で借り、102頁10行め、明治「三十六年」103頁4行め「五月その家に入れり」。そして107頁5行め、明治「三十七年の夏頃」家が売れたとて退去を求められたことで、5~6行め「牛込区東五軒町」「二番/地小笠原子爵の家を購求して」入っている。牛込区東五軒町2番地は現在の新宿区東五軒町1番2号、パークコート神楽坂レゼリアの南西角の辺りである。
 なお「故郷純造氏の住宅」とあると、郷純造の死後空家になっていたのを相続した郷誠之助(1865.正.八~1942.1.19)が処分しようとしていたかのようであるが、当時郷純造(1825.四.二十六~1910.12.2)は存命である。この「故」と云うのは執筆当時のことであろうか。郷純造は長く麴町区上二番町に住んでいて、牛込区若宮町(現・新宿区若宮町)に住んでいたかどうかは分からない。その方面から番地が特定出来ないかと思ったのだが手懸りは得られなかった。
 それはともかく、そうすると「若宮町時代」とは明治36年(1903)5月から明治37年(1904)夏までの間で、第八版『日本紳士録』に拠れば赤堀氏は既に陸軍中央幼年学校教授、任免裁可書だとにこの期間中の明治37年1月に陸軍教授に任官されている。よって、ほぼ同時期の動きであったことになる。三省堂編輯所の方が長続きしたのかも知れないが、陸軍教授を明治39年(1906)9月に休職になった「後」のことのように読める佐藤氏の「解題」の書き振りは改めるべきだろう。
 ところで『明治人物夜話』に話を戻すと【⑧神保町】はそれ以上引いていないのだが、佐藤氏は「六」節の最後、単行本154頁上段19~23行め(『新編』235頁15~18行め)、

‥‥。/翁は学界|のすね者ともいふべき人であつた。それだけにむ/つかしくて、容易に人を許したりせら|れなかつたのである/が、その人にしてこれだけの評言をせられてゐるのは、ま/た斎藤氏|が翁の賞讃に値する人だつたことの証明せられて/ゐるものといつてよい。【154上】

の最初の一文を抜いて赤堀氏に対する森氏の評言としている。
 佐藤氏は次の段落(ⅲ頁9~17行め)を、

 もっとも、反町茂雄の『一古書肆の回想』が伝える、赤堀晩年の逸話には、時世を超脱した感はあるが、傲慢な印/象は受けず、身についた知識教養を後進に邪気なく楽しげに語る老大家の風がある。所有する古書も貴重なもので、/「どれも、どこか取柄のある珍本」であったという平凡社ライブラリー版2 一二一~一二七頁)。‥‥

と「すね者」評とは別の面を伝えるものとして『一古書肆の回想』を持ち出すが、これは既に見たように『一古書肆の思い出』である。これについてはブログ記事【②higo】及びこれを承けてのブログ記事【①空山】の補記によって参照したもののようだ。
 この辺りの『一古書肆の思い出』の原文はその一部を、3月30日付(09)及び3月31日付(10)に引いて検討して置いた。佐藤氏の印象は後者に述べた私の印象と合致する。しかし、どうもこの辺りにも佐藤氏がこの「解題」を余裕なく成稿させたらしい痕跡が窺える。「赤堀晩年の逸話」としているが、こここそ「晩年の赤堀の回想」と云うべきで、4月23日付(33)に指摘した、山田孝雄が伝聞を語ったに過ぎない箇所を「回想」と称しているのと同様の混乱と云わざるを得ない。
 続いてⅲ頁11~15行め、

‥‥。反町との関係は昭和/十五年まで続き、その後、赤堀からの連絡は途絶えたという。昭和十八年までの足跡は他の資料からも若干は追える/が、敗戦前に亡くなったのは確実で、敗戦の年の十一月に赤堀夫人が反町の許へ、赤堀の遺言で空襲の中を唯一持ち/出した古典籍を売りに来た記述から解る。それは『文明六年本節用集』で、希代の秘本であったという平凡社ライブラリー版3 一〇一~一〇五頁。他に同「戦火を免れた古辞書のこと」『三省堂ぶっくれっと』六九号)。‥‥

とあるのは4月1日付(11)に引いた『一古書肆の思い出2』と、4月2日付(12)に引いた『一古書肆の思い出3』の記述に拠っている。但し後者で確認したように「敗戦の年」ではなく昭和21年(1946)のことである。それから昭和18年(1943)までの足跡と云うのは具体的にどのような根拠に基づいているのか、ネット環境の変化した今からではちょっと確認しづらい。佐藤氏が赤堀夫人の件に気付いたのは、先述のブログ記事【①空山】とその補記、そしてブログ記事【②higo】に拠ってであろう。
 この段落の最後は、赤堀氏の蔵書が当時の古書展覧会目録に見えることを指摘しているが、蔵書については別に纏めて扱う予定なので今回は割愛する。(以下続稿)

*1:『新編』ルビ「これ/そのうんちく/いなぎ /りゆうほう・ちようりよう・りゆうび/」、また末尾の句点なし。

*2:『新編』は「百科大辞典」を二重鉤括弧で括る。

*3:本書107頁14行め「都村重舎」とする。