瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

八王子城(16)

・地域批評シリーズマイクロマガジン社
 当ブログでは道了堂の歴史を正しく跡付けようと思っていて、取り敢えず出版物に掲載されている情報は網羅しようとしておるのですが、八王子市域の怪異談の現場については道了堂に注意する前に、八王子城について、2016年3月に郷土史家の椚國男の著述2種『戦国の終わりを告げた城』『高尾山と八王子城に見える怪異談を紹介しておりました。この私の記事に椚氏に怪異談を語った本人と思われる人が気付いて、2016年3月25日に「大変興味深く拝読させていただきました。当時の事を懐かしく思い出しております。よろしければコメント欄ではなく、直接的メール等でお話しさせていたければありがたいのですが……。」とのコメント(当方の判断により非公開)を下さったのですがメールアドレスの記載がなく、その後先方からの連絡がないままで4月にだーくプロ 編著『多摩の怪談ぞくぞくガイド』の記載を追加して以降調査も滞り、そもそもが城跡の怪談に興味があると云うより東京造形大学と云う学校の、しかも今は移転してしまって存在しない校舎の怪談と云うことで、中学高校時代に学校の怪談の調査を(常光徹の『学校の怪談』の影響でなしに)していた私には興味深かったのと、かなり実績があり八王子の郷土史界の重鎮のように見える人物が、このような話をまともに取り上げて、資料として活用出来るような形で纏めていることが、私には甚だ興味深く、珍重すべきことと思われたから当ブログに取り上げたので、椚氏の記述を紹介し、椚氏の記述に基づくと見られる『多摩の怪談ぞくぞくガイド』を紹介した時点で私としては能事畢れりであった訳です。別にこれで打ち止めにしようと思っていた訳ではなくて、その後、ギンティ小林の『新耳袋殴り込み』なども読みました。今、検索しても劇場版がヒットするばかりで、多数出ている書籍版の、どの巻であったか思い出せないのですけれども。
 いえ、心霊スポットを紹介するサイトやら、本やらをちらちら見ているうちに、これら厖大な情報を整理するなどと云うことに着手するのはとにかく面倒だし、私が扱いにくいと思っている個人の体験談も取り扱わねばならなくなる訳で、これは私の手に負えないし、そもそも私にはそこまでの興味はないと思ったのです。東京造形大学が今も現地にあって、学生の体験談が報告され続けていたら、学校の怪談の Variation のつもりで、もう少し興味が持てたかも知れませんが。よって、その後、現地に赴くことなく、行けばそれなりに面白いのでしょうけれども、別に行こうと思っておらぬのです。
 ただ、道了堂の資料漁りの過程で同じ八王子市域にある八王子城址についての情報も目にする機会が増え、10月21日付「道了堂(121)」に取り上げたマイクロマガジン社の「地域批評シリーズ」の①B5判と②文庫版を揃えて見たことで、何となくメモを取って置きたくなったのです。
 まづ昨日、10月26日付「道了堂(123)」にて紹介したコラム「八王子ミステリーツアー」の記述から抜いて置きましょう。冒頭の段落、①52頁左1~10行め②92頁3~9行め、改行位置は①「/」②「|」で示しました*1

 壮絶で凄惨な戦いが繰り広げられた八王子城は/心霊スポットとして名高い。|だが、幽霊の存在を/信じるかどうかは別にして、八王子城跡地は、東京/造形大|学の移転などのために破壊されてしまった/箇所も少なくない。東京造形大学な|んて壊すだけ/壊して別の場所に移転したから罰あたりな気もす/る(壊したから|移転するはめになったとか?)。/そんな八王子城を筆頭にして、市内には「心|霊ス/ポット」がやたら多いし、怖いもの見たさに行って/みた、なんて市民も少|なからずいるだろう。


 八王子城に関するメインの記述はもちろん本編にある「八王子の名前が初めて現れた中世」の節です。章立てが少々ややこしいことは10月24日付「道了堂(122)」に述べたのでここでは繰り返しません。この節はさらに2項に分れていて、1項め「名前の由来は神様と/八人の息子たち?」に、後に八王子城が建設された深沢山に八王子神社が祀られることになった縁起を紹介し、2項め「八王子はとても/ミステリアス!?」に八王子城の築城と落城、そしてその後のことを述べております。
 ①は4段組で40頁の上2段は八王子城址に再建された城門の写真。②では写真は74頁に纏めてあり、上に同じ写真を左右を広く掲載し、下に①にはなかった「八王子城の御主殿跡の東にある冠木門。八王子城は戦国時代に北条|氏康の三男・北条氏照が深沢山に築いた」とのキャプションを添えています。
 ①41頁は1~2段めの左側(16行分)に年表「八王子市の歴史(中世まで)」がありますがこれは②にはありません。3段めの左(13行分)の写真は②74頁下に左右と下を広くして掲載されています。下に添えられているキャプション「こちらは日吉八王子神社。1945年8月2日の八/王子空襲からも奇跡的|に焼失をまぬがれた」は同文*2。①4段め右(13行分)の写真は②には掲載されておりません。都道46号線の「元八王子三丁目」交差点で写っている建物は現存しています。キャプションは下「戦国時代に北条氏が八王子城を築城したことが、/元八王子の地名の由来となった」。
 本文は①40~41頁②70~73頁のうち、1項めは①41頁2段め9行め②72頁6行めまで。2項めは残り。項の見出しは①は2行。
 2項めの最後、①41頁3段め17行め②73頁4行め以下、

 1590年6月23日、豊臣秀吉/の軍勢が小田原攻めの際、北条氏/の重要戦略|拠点だった八王子城に/【3段め】総攻撃をしかけたのだ。主な家臣/が出払っていた八王子|城は、壮絶/な落城を遂げた。このとき城に籠/城していたのは百姓や女子ども*3ば/か|りだったが、婦女子たちは辱め/を受けるくらいならとご主殿の滝/に自ら飛び降|り、三日三晩血で真/っ赤に染まったという言い伝えが/ある(そのため地元では|現在でも/旧暦の6月23日には、赤飯を炊く/のが習わしになっている)。この/一|件が、後におどろおどろしい/「八王子城伝説」を生むきっかけ/ともなっていく。*4
「八王子」という名前ひとつとっ/ても、何やら非常にミステリアス/である。妖|怪やら怨霊やら、今な/お物騒な八王子らしいエピソード/が満載なのだ。


 6月23日は行事についての記述からも分るように、かつ当然のことながら「旧暦」なので「1590年6月23日」としてしまうのは(ありがちだけれども)宜しくありません。なお、この行事は2016年3月14日付(08)に引いた椚國男『戦国の終わりを告げた城』には「第二次大戦後この習わしは絶えてしまったが」とあるのですが「現在でも」とは、その後復活したのでしょうか。
 続く「江戸期には徳川の直轄領として開発」の節の冒頭でも、もちろん八王子城落城について触れています。この節は「徳川が再開発した/ニュータウン八王子」の1項のみ、①は42頁1~2段めは片側2車線の大通りの写真で、背後に八王子市千人町3丁目18番6号、国道20号線甲州街道)に面した3階建の「日本生命」が写っています(現存)。①42頁3段め3~16行め②75頁4~9行め、

 1590年、北条氏の出城だっ/た八王子城は、豊臣方の前田利/家・上杉景勝|軍の攻撃を受けて落/城した。自刃した武将たちの奥方/や子ども*5たちは、次々と|滝(御主/殿の滝)に身を投げ、川は流れる/血で真っ赤に染まったという/……。|これが今なお「鎧武者を/見た」とか「女の人の叫び声が聞/こえた」とかいうウ|ワサが絶えな/い八王子城落城伝説の始まりであ/る(心霊スポットとして有名に|な/りすぎて、城の歴史的な価値があ/まり知られていないのは残念だ)。


 重複気味と云うか落城に関してはこちらの方が詳しいくらいです。(以下続稿)

*1:②は句読点全て全角、括弧は疑問符と句点に挟まれた1箇所のみ半角。

*2:②は句点と算用数字半角。

*3:②「女子供」。

*4:②は行末の句点がぶら下げになっており、ここで段落が改まっているかどうかが分らない。②はこの前後の鉤括弧がいづれも全角。

*5:②「子供」。