瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(77)

・「北野台ニュース」第72号
 既に取り上げた馬場喜信『八王子片倉台の地誌』は、5月15日付(53)に引いた「あとがき」にあったように、自治会報「片倉台自治会だより」に連載されたものだった。
 そうすると、他にも周辺の新興住宅地の自治会報に、道了堂を取り上げた記事があるかも知れない。そう思って自治会の記念誌を幾つか覗いて見た。
・『絹ヶ丘一丁目の50年』令和3年9月発行・絹ヶ丘一丁目自治会・157頁・A4判並製本
 19~24頁「第二章 団地売り出し(1970年~)」の最後に、囲みで過去の自治会報の記事が複写されて転載されている。
 24頁、3段組の中段・下段に当たる部分の中央から左、3段組で、上段にまづ4行取り3字下げで大きく「絹 の 道」と題し、本文は21行(中段)で1行15字。執筆者は下段の最後に3行取り、下寄せで「四区五班 合田 稔 」とある。囲みの左辺の外側、下寄せで「北野台ニュース第72号 1986年(昭和61年)4月25日 」とある。
 冒頭の段落を抜いて置こう。上段2~13行め、

 筆者は毎年数回散策や落葉拾い/で絹の道を訪れているが最近年々/進む宅地化の波に押されて周辺は/以前に比して様相がすっかり変っ/た。当団地が絹ケ丘と改称された/ように直線距離で僅か二〇〇〇米/西へ行くと絹の道があり、まだ自/然の残っている格好の散策地とい/える。当団地から既に沢山の人々/が訪れていると思われるが、まだ/訪れてない人や知らない人のため/に紹介したい。

として、「由木街道」からつまり鑓水側から絹の道に入り道了堂に向かうルートを紹介している。上段18行め~中段2行め「‥‥。この【上】/附近は現在四車線に道路拡張工事/中である。」との記述に注意して置こう。
 中段20行め~下段5行め、冒頭は1字下げであるべきだが詰まっている。なお、この囲み(引用)記事の右側、24頁中段は余白だが下段には「石碑「絹の道」」の写真が掲載されている。

道了堂の石段の前には「絹の道」/の石碑があり台座には繭と糸巻と【中】/桑の葉が彫られている。
 この道了堂に直接行く近道は西/武北野台団地を通り五〇〇〇トン/の貯水タンクの坂道を上るとすぐ/右側に道了堂の入口がある。


 この近道の方は守屋龍男『多摩の低山』に紹介されていたものに同じ。6~18行め、

石段を上ると草や木はぼうぼうと/生え放題で堂の半分は崩れ落ち、/住む人もなく荒れ放題である。
又境内は薄暗くて気味悪く、首の/ない地蔵や居場所を失なった地蔵/が哀れである。道了堂の北側は宅/地化のため削られ西武北野台や東/急片倉台の団地が一望できすぐ下/には今回開通した八王子バイパス/が通っている。ここ「絹の道」は/近々取り壊されるという道了堂と/共にはかない存在なのかも知れな/い。


 この記事と同じ昭和61年に撮影されたかたくら書店新書20『絹の道』12頁に掲載される写真を見るに、崩壊はまだ向拝の屋根に止まっているように見えるが、やはり正面の屋根の崩壊は、強い印象を与えるのであろう。首のない地蔵は恐らく座像の方で、立像の方はこの時点ではまだ首が残っていたはずである。
 「近々取り壊されるという」話は、八王子市の保存計画に関連してのものか、それともそういう話が広まっていたのか。しかし、それにしても、どうして昭和58年(1983)解体説がこれほどまでに広まってしまったのだろうか。
 とにかく、地元の住民も昭和61年まで道了堂があったことを(知っている人は)知っていたのである。まだ36年前のことである。昭和61年に道了堂を見た人も、まだまだ現存していると思うのだけれども。(以下続稿)

道了堂(76)

・かたくら書店新書20『絹の道』(9)
 本書に見える道了堂の現状と回想については「」を除いて、前回までに一通り眺めて置いたはずである。
 道了堂境内の石造物について記述した「」は、遠からず他の本と比較しつつ検討しようと思っている。
 今回は、気になったところを頭から順にメモして置く。
・3頁上欄、左にゴシック体1字下げでやや小さく「絹の道の由来」と題し、明朝体で小さく13行(1行12字)で説明。6~9行め「‥‥。昭和26年郷土史家/の橋本義夫氏らによって、/「絹の道」の碑が大塚山の/入口に建てられた。‥‥」とあるが、6頁「絹の道碑」の拓本に「一九五七年四月」とあるように、昭和32年(1957)が正しい。この碑については「」8~9頁11行めに詳述されている。
・9頁上欄に「シルクロード」砂漠を行く隊商のイラスト。駱駝8頭、うち2頭に人が乗る。表紙のイラストはこれと同じ発想。
・11頁5行め「堂了堂」は、もちろん「道了堂」。
・15~20頁「二、絹の道と多摩の伝統工芸
 この章と次の章は6月9日付(70)に名前だけ挙げただけで済ませていたので、もう少し情報を足して置こう。15頁扉、16頁は下に「鑓水八幡神社の精巧を極めた彫刻(明治十八年作)」の写真、鑓水八幡神社は鑓水諏訪神社に合祀されている。17頁はまた扉で「三、絹の道と多摩の伝統工芸」下島彬(中央大学)、本文は18~20頁の3頁だからごく概略が述べてあるに過ぎない。なお、5月18日付(56)に書影を貼付した下島氏の著書を見たので、ここにメモして置こう。
・下島彬『多摩の伝統技芸・1』1990年10月10日 初版第1刷印刷・1990年10月20日 初版第1刷発行・定価1,800円・中央大学出版部・190頁・四六判並製本
・下島彬『多摩の伝統技芸・2』1990年10月10日 初版第1刷印刷・1990年10月20日 初版第1刷発行・定価1,800円・中央大学出版部・190頁・四六判並製本
 詳しい内容は別に取り上げることとしたい。ほぼ同じ構成でまづ「目次」ⅲ頁、本文は『1』は187頁、『2』は188頁までで、189~190頁に全く同じ内容の「あとがき」がある。次いで横組みの奥付があるが「1」が「2」になっていることとISBNコードの下2桁が違う他は一致。ここでは上部の「著者紹介」を見て置こう。2行め「下 島   彬(しもじま・ひとし)」とあって3~6行め、

1922年 長野県飯田市に生まれる。県立飯田商業学校を/へて中央大学を卒業。
日本民具学会、地方史研究協議会、桑都民族の会、近世/古文書の会、郷土史研究会、打越歴史研究会の会員。

とあって5月18日付(56)に引いたかたくら書店新書44『野猿峠』の「著者紹介」と所属する団体に出入りがある他、卒業した大学が異なっている。
・21~28頁「三、絹の道と困民党
 21頁扉のイラストは永泉寺。22頁下の写真は「困民党の碑/ 八王子市中野の子安神社境内にある。」。23頁の扉には「三、絹の道と困民党」阿部昭三(困民党・地鳴り原作者)とあって24~28頁本文。
・64頁上欄右「土 井 寺」見出しとも15行。6~10行め「‥‥。/昔。斎藤道三の家来であっ/た土岐氏の子孫が、織田信/長に滅ぼされて関東地方へ逃/げのびる際に北条早雲の家/来となり、‥‥」とあるが、斎藤道三(1494~1556)と織田信長(1534~1582)は良いとして、北条早雲(1456~1519)では時代が合わない。
・77頁1~4行め、前回引いた「」の「⑤道了堂付近」の後半からもう少し抜いて置く。

‥‥、春の桜の咲く頃の祭りには/幔幕が張り巡らされ、堂守、庫裏、書院等が建並び茶屋も何軒か並ん/だ道了堂、ここで明治十六年五月、神奈川県会議員慰労会が開かれ六/十余人集まり盛会なりしと自由新聞は報じています。‥‥


 境内の様子は小泉栄一所蔵「武藏國南多摩郡由木村鑓水/大塚山道了堂境内之圖」に拠るものだろう。但し「堂守」は「子守堂」である。本書にはこの図を説明した章があっても良かった、いや、あるべきだったと思うのである。
・98頁は全頁、下に明朝体横組み左寄せで「5月20日東京新聞転載」とある新聞記事の複写で「けやき」と云う5段組囲み記事、中央に3段抜きで「絹の道ブームの余波」とあり、左上2段抜きで「小泉家屋敷」の石柱の脇に立つ小泉栄一さん(六九)の写真。小泉栄一(1917.4~1999.7.2)の年齢からして昭和61年(1986)5月20日付「東京新聞」である。
・101~104頁」の「⑤ 「絹の道・鑓水の里」/見て歩き参加者名簿」のうち、15~17・89・116・140の6名は6月7日付(68)に見た。「※名前は申し込み順」である。そして「」に寄稿している打越歴史研究会の会員は「43. 井本  肇」44~45も井本姓で妻と息子か。「77. 青木 貞一」78は妻か。「79. 岩田 久雄/80. 尾崎 正道/81. 藤森治郎/82. 天野七郎」1人挟んで「84. 下島  彬」と半ば辺りに名前が並んでいる。(以下続稿)