瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(56)

 ここでもう1冊の、昭和58年(1983)以降も道了堂が焼損などせずに存在していたことを記録している本の紹介に移りたいところなのだけれども、また少し遠回りになるが関連する別の1冊を紹介して置く。今回も道了堂の記述には触れないので、お急ぎの方はスルーして下さい。どのような本なのか一通り確認して置きたいのである。
・かたくら書店新書44『野猿多摩丘陵自然の移り変り1999年9月 9日発行・定価950円・141頁
 書名は表紙・背表紙・奥付に拠る。1頁(頁付なし)扉では副題は「―」で挟んで脇に添える。
 奥付の上に横組みで「著者紹介」があり、2行めに大きく「下 島  彬(しもじま ひとし)」、3~7行め、行間の広く取って、

 1922年 長野県飯田市生まれる。県立飯田商業学校卒/業後専修大学卒。中央大学職員に就職、定年後郷土史、民/俗学に興味を持つ。打越歴史研究会代表。桑都民族の会、/説経節を語る会、近世古文書の会などの会員。
 著書 多摩の伝統技芸1・2   その他共著、執筆あり。

とある(誤字脱字ママ)。
『多摩の伝統技芸』函入2巻セットは勤務していた中央大学の「出版部」から刊行されている。

 2~3頁「ま え が き」は「一九九九年八月一日」付、冒頭(2頁2~7行め)を抜いて置こう。

 この本は打越歴史研究会の会報「打越」に昭和六〇(一九八五)年の創立のこ/ろから十三年間「野猿峠」という題で連載してきたものをまとめてみたものであり/ます。本にまとめてみるに当たって、内容が「野猿峠」という題から外れてしまい、/多摩丘陵のあちらこちらにペンが飛んでしまいました。文章は一定のコースを辿る/でもなく、粗雑になってしまいました。また取材が長い間にわたったために、動植/物が生息していた場所から消えて居なくなっているかも知れません。‥‥


 4~5頁「目   次
 6頁は頁付のみ、以下の白紙の頁にも頁付だけはある。
 7頁「一.野猿峠の地形・地質」の扉。8~10頁本文。
 11頁「二.多摩丘陵について」の扉。12~15頁本文。
 17頁「三.野猿峠の地名考」の扉。18~25頁本文。
 27頁「四.動 物」の扉。28~47頁本文。
 49頁「五.鳥 類」の扉。50~57頁本文。
 59頁「六.昆虫類」の扉。60~69頁本文。
 71頁「七.植 物」の扉。72~131頁本文。
 133頁「主な参考文献」の扉。134~141頁本文。
 初出の「打越」については、国立国会図書館サーチに拠り、創刊号(昭和60年8月1日)から第63号(平成14年7月1日)で休刊するまでが国立国会図書館に所蔵されていること、季刊、B5判であったことが分かる。50号までの打越歴史研究会編刊「会報『打越』総目次」(平成11年)も所蔵されている。
 八王子市の中央図書館と八王子市打越町に近い北野市民センター図書館、それから八王子市内の大学図書館3館に、八王子市打越歴史研究会 編刊『会報『打越』 創刊号~第50号』(平成11年10月)が所蔵されている。最初の10頁が「総目次」で本文が250頁、大きさは菊判もしくはA5判、第50号(平成11年4月)を記念しての刊行で、本書も同時期の刊行だから第50号を区切りに纏めて置こうと思ったのかもしれない。
 本書の、特に「四」~「七」章は、それこそ「長い間にわたった」連載内容を分類して纏め直したような内容なので、部分部分の執筆時期は合本版『会報『打越』 創刊号~第50号』に就いて確かめるしかなさそうである。
 なお「三.野猿峠の地名考」は、23頁11~12行め、

 昨年昭和六一年五月一八日、打越歴史研究会主催第三回歴史見て歩き―永林寺を/訪ねて―で、下柚木の御嶽神社を詣でた折、‥‥

とあるから、この章は昭和62年(1987)掲載のまま、収録しているらしい。
 ところで、中央大学は昭和53年(1978)に千代田区駿河台から八王子市東中野に移転しているから、下島氏はこれに伴って移転して来たのかと思ったのだが、「四、動 物」の章を見るに、3節め、33頁3行め~37頁3行め「タヌキ」に、33頁7~11行め、

‥‥。昭和四七年九月こ/ろ、隣盛窪のわが家にも半年ばかり出没し、ポリ/容器の生ゴミをひっくり返してあさるので困って、/餌を与えているうちに餌づけに成功したが、半年/位してバッタリ来なくなった。‥‥

とあるから、どのような縁かは分からぬが、それ以前から八王子市打越町に住んでいたことが分かる。
 Google My Maps「打越町の地名」の「隣盛窪」には、

【隣盛窪】りんせいくぼ
隣盛庵という廃寺があったという谷戸地。デーのモリの西側にあったが造成で姿を消した。かつては沼の多い地で、鬱蒼としており、マムシが多かったことから「マムシ沢」の別名もあったという。

とある。梅洞寺の東を北流する沢筋である。『八王子事典』改訂版には「隣盛窪」は出ていないが「隣盛庵(廃寺)」は載っている。
 さらに6節め、40頁11行め~43頁7行め「ハチュウ類」の1項め、41頁8~13行め、

 アオダイショウ アオダイショウは一〇年ばかり前には私の家の納屋でよく見/かけた。生垣の上には毎年のようにぬけ殻が残っていた。三〇年ばかり前、打越町/の中谷戸に住んでいた時、母が天井に水道の鉛管が通っているので、不思議に思っ/て箒の柄でつついたら、動き出してびっくりした事があった。家の前の打越弁財天/へ行く道で、カエルを追っかけていくアオダイショウを見かけた事が二度ばかりあ/った。【41】


 中谷戸野猿街道の信号「打越弁財天入口」から南南西に入る谷筋で、奥まったところに打越弁財天がある。但し旧地は八王子バイパスとなって失われ、現在は100m程東南東に移転している。
 この節の前置き部分にも、41頁2~3行め、

‥‥。時々、先を割った竹を持ったマムシを探すヘビ屋をよく見かけ/たと、谷戸で集落の人たちが言っていた。三十年ばかり前の話である。‥‥

とあり、或いは5~7行め、

‥‥。昭和三十年代には、三多/摩でマムシに噛まれて、血清の用意のある病院まで救急車で運ばれたという、新聞/記事をよく見かけた。

とあって、刊行に際してきちんと年数を書き換えているのか、先に引いた「三」章の記述からしてちょっと不安があるが、平成11年(1999)からとして昭和44年(1969)と云うことになる。いや、マムシの記述は新聞の地方面でも都内版には出ないだろうから、三多摩対象の都下版に出たのであろう。そうすると昭和30年代から打越町(中谷戸)に住んでいたもののようである。そしてその後昭和47年(1972)には隣盛窪に移っているが、この節の2項め、42頁1~4行め、

 シマヘビ シマヘビは平成二年九月上旬、長さ五〇センチぐらいのが、私の家/の下の隣盛窪へ入る道で、中学生たちがおもちゃにして遊んでいた。平成九年八月/八日わが家の門柱の上に六〇センチぐらい太さ一センチのシマヘビが横たわってい/て、驚いた。

とあるように、正確(?)には隣盛窪の上流に造成された旭ヶ丘団地(打越町)らしく思われる。(以下続稿)