瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

正岡容『艶色落語講談鑑賞』(19)

・朝鮮烏羽玉譜(11)
 私は朴氏の回想記に見える、安岡正篤の回想談に登場するソウルの李花仙は、正岡氏の逢った李花仙と同一人物だろうと思うのである。
 しかし、朴氏の回想は辻褄の合わないところがある。「はじめに」2頁め7行めに拠れば「日記」に基づいているのだが、会食での会話までは記録していなかっただろうから、そこら辺の日記に記されず記憶を甦らせた部分に混乱があるらしいのである。まず安岡氏と初対面の席での会話では、7月12日付(17)に指摘したように「久保田発言」が話題になっているように書かれているのだが、これは記憶違いと云うか回想記執筆に際して混線したと云うべきもので、安岡氏と初めて会ったのはやはり朝鮮戦争勃発後、恐らくは昭和25年(1950)のうちのことであったようだ。昭和28年(1953)8月に朴氏は米第五空軍から韓国の休戦委員会に派遣されており、「久保田発言」の頃は東京にいなかった。「赴任三ヵ月ぶり」の「初めての休暇」で「東京に戻っ」て、「丸の内にある日本工業倶楽部」での「安岡の講演」を聞き、その終了後に安岡氏から、112頁11行め「この青年は韓国の国士で、以後よくご支援下さい」と紹介されている。そして李承晩を下野させた「四・一九革命」を経て「米国防総省」を辞職し「六〇年五月初め」に「東京に戻」るまで「板門店を活動の中心」として過ごしているが、その間も「安岡の紹介あるいは推薦」で人に会うために「東京にいる時が頻繁になっ」ている。
 すなわち、東京勤務時代に初対面、そして久保田発言については「初めての休暇」で東京に戻った折か、その後の安岡氏と会食する機会があって、そのような話をしたのだと思われるのだ。――尤もこれは安岡氏の回想そのものとは関係ないことなのだけれども。
 さて、安岡氏と李花仙の再会は、285〜303頁「第4章 晩年の悔悟」290頁7行め〜295頁9行め「酔夢の女性」に綴られている。昭和53年(1978)5月19日、慶北大学退渓研究所主催「退渓思想国際学会」に参加するため訪韓した安岡氏のために、八木信雄の発案で「午後」安岡氏の滞在するホテルに「李花仙を招くこと」になった。そして「薄い灰色のチマ(スカート)に白いチョゴリ(上衣)と質素な身なり」で「淡々と老いた容貌であり、体型であ」る李花仙と再会する。安岡氏は「李花仙が永い歳月の間、保ってきた容貌と気品に気をよくしていた」。そして「話題が三十年の歳月に及んだ」とあるが、終戦直後にも安岡氏はソウルを訪問する機会があったのであろうか。(以下続稿)