瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

閉じ込められた女子学生(16)

 昨日の続き。
 川奈まり子実話怪談 出没地帯』の「母校の怪談」が相模原校舎の怪談の「ソース」として利用している[mixi]のコミュニティ「女子美(4年制)」に2004年10月12日に立てられたトピック「6号棟に出るって話し」では、当初相模原校舎の話題が続いていたのですが、10月16日書き込みの[4]番が「杉並の方が出そうですよね」と振ったところから、10月16日書き込みの[5]番、12月17日書き込みの[6]番、12月21日書き込みの[7]番と杉並校舎の話題が続きます*1[8]番と[9]番はmixiのIDを持たない私は閲覧出来ないのですが、2005年3月25日書き込みの[10]番が、かなり具体的に、川奈氏が取り上げている2つの事件に言及しています。

杉並校舎の時計塔の話は付属では有名だったなあ。
火柱が10mも上がったとかなんとか。
 
私が聞いた説によると、焼身自殺したのは屋上に魚の絵が描いてある棟で、魚の絵は供養&焼け焦げを隠すためだとか。時計塔の上の方は実際探検してみましたが、階段を登っていくとどんどん物置き化して狭くなり、いかにも恐い感じでした。遺書が壁に書いてあったとか聞いたけど、その時は見られませんでした。
 
和田寮の押し入れで死んでた人がいたってのも聞いた事あるんですが、本当でしょうか?
 
相模大野は街自体が元々霊的にヤバい土地だってのも聞きました。伊勢丹のオープンが予定より遅れたのも、工事中の事故が多発しまくったからだって。今やなき16号沿いの相模外科は有名な心霊スポットだったし。しぇ〜恐い恐い!!


 伊勢丹相模原店は平成2年(1990)9月、女子美術大学相模原校舎開校と同年の開店で、来年2019年9月30日の閉店が決まっております。
 相模外科病院は当時TV等でも紹介されて有名だった廃墟だそうで、KUZE 氏のサイト「ポンチハンター」の「【廃墟マニヤ File026】S模外科病院(神奈川県)」に、平成2年(1990)9月と平成4年(1992)6月の写真入り探訪記が上がっています。
 [10]番も付属から在学していたようですが、事件と在学時期が重なるのかどうかは、これだけの記述では判断出来ません。
 2005年5月19日書き込みの[14]番は、この人は大学だけらしいのですが、有難いことに卒業の年を明示しています。

はじめまして。
平成2年洋画科卒です。
屋上の話、聞いたことあります。
課題の絵を酷評されて、絵と一緒に油をかぶって火をつけたけど絵だけは燃え残ったとかいう・・・
 
あと、編入する前の1年のときに和田寮に住んでました。
しょっちゅう門限破って掃除させられてたです。(汗)
その1年前だかの夏休みに部屋のロッカーに閉じこもって死んじゃった人がいるって聞いてびびりました。
4階・・・だっけかな?確かにほかの部屋は埋まってるのに、その部屋だけ誰も住んでなかったですねー。
トイレの鏡に首のない女性が映るって話もありました・・・


 平成2年(1990)3月に芸術学部美術学科洋画専攻を卒業した、と云うのですから、入学は(休学・留年・留学などしていなければ)昭和61年(1986)4月です。「編入する前の1年のときに和田寮に住んでい」た、と云うのは、当初、女子美術短期大学に入学してその後4年制の女子美術大学編入した、と云うことで、その1年めの昭和61年度、短大1年生のときに和田寮に入寮していた、と云う訳です。従って、短大入学は川奈氏と同期と云うことになります。
 付属出身ではありませんから、屋上焼身自殺は「聞いたことあります」と噂を書いています。
 寮の方は、川奈氏の話を訂正するものと位置付けられそうです。1年間しか入寮していなかったようなので、時期については信用して良いでしょう。川奈氏が聞いた通り「夏休み」なのですが「1年前だか」すなわち昭和60年(1985)かその前年辺りの「夏休み」なのです。[10]番は「押し入れで死んでた」との風聞を記していましたが、やはり川奈氏の聞いた通り「部屋のロッカー」です。
 これで川奈氏の記述の疑問点は解消されそうです。昭和60年(1985)夏に事件は起こり、ロッカーを処分しリフォームしたものの、結局、昭和61年度に[14]番が気付いたときには空室、そして昭和61年度か昭和62年度、川奈氏の在学中に川奈氏が寮を訪ねたときにも空室になっていました。
 そして、寮の事件を川奈氏が焼身自殺の「少し後」と書いていた理由も、見えて来たように思います。――10月17日付(14)に引用した箇所の書き振りからして、川奈氏は寮の事件を、短大進学前のことのように扱っているものと思われます。そして[14]番の書き込みによってこれは確認出来ました(本当は昭和60年度の寮生の証言が欲しいところなのですが)。問題があるのは焼身自殺の時期の方です。10月16日付(13)にも疑問を表明しましたが、どうも、高3の3学期と云う雰囲気がしないのです。もっと平常時の出来事のように書かれているように思われるのでしたが、川奈氏が自分が短大に入学する前年の夏休みのさらに前、高2の3学期に焼身自殺が起こったと思っているのだとすれば、この疑問は解消されます。内部進学した川奈氏は、高校卒業後にも同じキャンパスに通学し続けたので(学生にも付属以来の面々がいたことでしょうから)高校と短大で記憶にハッキリとした境界線を引くことが出来ず、実は短大進学後に訪ねた時計塔の記憶を、高校時代のことのように思い込んでしまったらしいのです。
 寮の事件は、報道もされなかったでしょうから、今から時期を記した資料を見付けるのは困難でしょう。当然付属の生徒たちに知らされることもなく、内部進学後、寮生と同級生になって初めて、さすがに寮生には前年のことは隠せませんから、そこから徐々に広まって行ったもののようです。すなわち、川奈氏が知った順序としては焼身自殺が先で「その少し後」に寮の事件、と云うことになります。しかしながら、屋上焼身自殺の方は「十四台も消防車が駆けつけ」る騒ぎになって「週刊誌でも報じられ」てしまったくらいなのですから、時期の特定は左程難しくないはずです。――その手続きを怠ったがために、記述に混乱が生じてしまったことが誠に残念です。(以下続稿)

*1:この3つの書き込みについては別に機会があれば検討します。