瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

田中貢太郎『新怪談集(実話篇)』(04)

・丸山政也・一銀海生『長野の怖い話 亡霊たちは善光寺に現る』(3)
 昨日の続きで、典拠である河出書房新社版『日本怪談実話〈全〉』と比較しつつ、丸山氏のリライト振りを確認して置く。記事の題は『日本怪談実話〈全〉』の原題である『新怪談集(実話篇)』としてある。要領は同じく『日本怪談実話〈全〉』からの引用を〈 〉で、『長野の怖い話』からの引用を《 》で括った。
二十六 城の堀にいたもの 上田市 108~109頁
 『日本怪談実話〈全〉』【228】赤い牛(344頁)
 まづ《明治初(一八七二)年の初夏のこと。》との書き出しだが、これが一人歩きして明治5年(1872)と書く人が出て来ないとも限らない。「明治初年(一八七〇年頃)のこと」で良いのではないか。なお「頃」とすると「初夏」の据わりが悪いので、典拠〈その日は朝からからっと晴れた好天気で、気候も初夏らしく温い日だったので、‥‥〉の通り、天候を説明するところで持ち出した方が良いと思う。
 典拠には末尾に小さく(植田某氏談)と添えてあるから田中氏が直接取材したもののようで、植田氏は事件を目撃した父の体験談を語っているのである。すなわち、344頁8~11行め、

 その日私の父も、面白半分その手伝いに往っていたが、正午近くなって濠の水が膝の下ぐらいに減っ/た時、父の周囲にいた人びとが異様な声を立てた。見ると父のいる処から三間ばかり前の方に当って、/一ところ水が一間半ばかりの円を描いて渦を巻いていた。
(何だろう)

 

 丸山氏はこの、目撃者個人とその心内語を排除して、次のようにリライトしている。108頁10行め~109頁2行め、

 正午近くになって、堀の水が膝下ほどになったとき、野次馬たちが異様な様子で騒ぎ始【108】めた。すると、堀の一ヵ所の水が、直径三メートルばかりの円を描いて激しく渦を巻いて/いる。


 客観描写になっている訳だが、典拠の「三間」と云う間近な距離感が失われたのは勿体ないように思う。
 丸山氏の結末部を見て置こう。108頁7~11行め、

‥‥、小牧/山を乗り越え、須川湖に姿を隠してしまったそうだ。
 どこへいってしまったのか、その後、二度とその赤い牛を見る者はいなかったという。
 
 にわかには信じられない話だが、当日は多くのひとびとが目撃しており、昭和初期まで/は「自分もあの日たしかに見た」と証言する者が複数いたそうだ。


 典拠である本書では、次のようになっていた。344頁15~20行め、

‥‥、小牧山を乗り越え、それから須川の池へ身を隠してしまった。
 今でもその替え乾しの時に、現場へ往っていて赤い牛を見たという人がある。私も少年の時によくそ/の話を聞かされたものだが、どうしても信じることができないので、作り話だろうと云って父に叱られ/たことがある、私の父はいいかげんな事を云う人でないから、もしかすると河馬のような水棲動物であ/ったかも判らないと思うが、それにしても河馬が日本にいるという話を聞かないので、どうにも解釈が/つきかねる。(植田某氏談)


 典拠では〈須川の池〉云々は《‥‥たそうだ》などと云う伝聞にしていない。そして次の《どこへいってしまったのか、‥‥》の行は蛇足だろう。
 すなわち、〈赤い牛〉は〈上田城の濠〉の主なのであろう。江戸時代には〈替え乾し〉は行われず、主が姿を見せることもなかったのであろう。しかし〈明治初年〉、上田市ホームページ「上田城の歴史」に拠ると、明治4年(1871)の廃藩置県に伴って上田城は政府に接収され東京鎮台第二分営が置かれるが、明治6年(1873)に分営廃止、明治8年(1875)には土地・建物の払い下げが行われるなど上田城を巡る混乱の中*1、《替え干し作業》が行われたことで、姿を現さざるを得なくなったのであろう。
 さて、この〈濠〉だが、現存する本丸を取り囲む本丸堀ではなく、二の丸を取り囲んでいた百間堀であろう。現在は埋め立てられて陸上競技場や市営野球場になっている。城の南側には堀がないが、千曲川の分流がえぐった尼ヶ淵に面しており、築城当初は急崖、その後江戸時代中期に石垣が築かれている。すなわち、芝生広場の辺りに千曲川の分流があったのである。
 それはともかく、廃藩置県の煽りで安住の地を追われた〈上田城の濠〉の主は〈須川の池〉に移って、常識的に(?)考えればそのままそこの主になった、と見るべきであろう。だから《どこへいってしまったのか》と云えば《須川湖》で、また《替え干し作業》をされない限り〈上田城の濠〉にいた頃と同じく、自分から人に気付かれるようなことはせずに《須川湖》の主として安住しているだろうと思うのだ。

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 かかる突っ込みを入れたことに《野暮というものだ》との批判があるかも知れない。売り物として成立しているのだから、それで良いではないか、と云う人もいるかも知れない。いや、余り好きではないと云うだけで、私も仕方がないと思っている。或いは、お前に売り物の文章が書けるのか、と云う人がいるかも知れない。それは書けるつもりで、高校時代に「祖父の記録した怪異談集」なるものを捏造したこともある。これまで私が聞き集めた話のうち古い時期のものを祖父が知人から聞いたことにしたのである。例えば、怪異の正体が分かって、その供養をしている場所に行き合わせて、親しく聞いた因縁談を書き留めた、と云う風に。――懇意にしていた図書館の司書教諭が信じてしまって、ちょっと困った。それは良いとして、既に原本が存するところに再話を市場に出そうと云うのであれば、気付いた範囲ではなく全体に註釈的検討を加える必要があると思う。尤も、私なら註釈的検討を加えた上でリライトするくらいなら、註釈をそのまま示したいと思うけのだれども。(以下続稿)

*1:そうすると〈替え乾し〉が行われたのは明治8年頃と見るべきであろうか。