瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

子不語怪力亂神(3)

 昨日の続きだけれども芥川龍之介の話には戻らないので、別の題にした。

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 東日流外三郡誌にハマっていた友人の主張は、――仮に偽書であったとしても、このような本が生み出される土壌があったことには変わりないのだから、やはり注目すべきだ、と云ったようなものだった(と思う)。これに対して、私の方は以下のように反論したのだけれども、結局聞き入れてはもらえなかった。――そのような土壌があることを認めるにしても、わざわざ偽書に拠らなくても良い。尤もらしい記述もあるが、全く荒唐無稽な記述ばかりだったら偽書にならないので、本当らしい、他の文献で裏付けられる記述を含んでいるのはむしろ当然である。その、本当らしい箇所と捏造箇所を腑分けして、前者は信用しても良い、みたいな使い方は恣意的な、摘み食いに過ぎない。本当らしい箇所も含めた全体を捏造と見做すべきなのである。
 もちろん人間は記憶違いのような、意図せざる《捏造》をしてしまう。それは、仕方がない。私もこれまで当ブログに過去の回想を幾つも書いたが、正確に思い出せたかどうか、全く自信はない。その時々によって思い出し方が違う。いや、それ以前の体験時、同じものを見ていても、同じ理解(解釈)をしている訳ではない。 harassment の加害者と被害者で受け取り方がまるで違うように。
 小説で、ある事件や人物について、実際よりも誇張して書かれていることについては「小説といふものは何をどんな風に書いても好いものだ」と鴎外が述べているように、そもそも小説とはそのようなものなのだから、構わないと思う。ただ、こうした小説の誇張を信じてしまう人が存在することが、ちょっと厄介だと思う。尤も、私とて自分の詳しくない分野のことで、そういう刷込みをされなかったとは云えない。
 しかし、小説など創作物と断っていないところで、意図して行われた《捏造》は、別である。
 私が民俗学者の書いた児童読物の《再話》に強い抵抗を覚えるのは、学問として、説話を資料として扱っているはずの人々が、妙な色を付けた話を、まさに伝承する立場の児童生徒に垂れ流す神経が理解出来ないからである。作家や児童文学者、それから稲川淳二が潤色した話を語っていても、それは「小説といふものは」と同じような按配だから、そんなものだと思う。しかし、民俗学者が加担して良いものだろうか。いや、資料としての使用に耐えうるものを別に提供してくれるのならば、まだ良い。しかし、それが十分になされていない。今後、講談社ポプラ社の『学校の怪談』シリーズに寄せられた、読者投稿をどのように取り扱うのか、しばらく期待せずに待ってから、私なりの断案を下したい。
 その意味で、朝里樹『日本現代怪異事典』の登場は、象徴的である。平成年間、凡そ研究資料としての使用に耐え得ないような怪談本が、民俗学者も関与しつつ大量に生み出された。学者と名乗るような人間は、もちろんこれらの本に載る怪談が、記述の信頼性の点でそのままでは資料として使用出来ないことが分かっているから、こうした本を掻き集めて事典にしようなどとは思わない。いや、学校の怪談大事典』と云う事典を作っているが、依拠しているのは児童読物の方ではなくその元になった非公開(未公開?)、或いは一般公開されていない(会員制)資料の方である。しかし朝里氏はそこを軽々と乗り越えてしまった。民俗学者の児童読物と中岡俊哉とが「参考資料」に並べてある。そして笠間書院と云う国文学専門の出版社が、項目等に難があることを整理せずに書籍化し、さらに常光徹が帯の宣伝惹句を書いたところが、この30年の集大成のようで如何にも象徴的なのである。

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 私は怪異だの心霊現象だのを信じておりません。私の立場は2011年3月22日付「幽霊と妖怪」や2016年1月14日付(1)(及び2016年1月23日付(2))に述べた通りです。
 記憶は無意識に《捏造》されるものだから、私は体験談を否定しません。見た、と云うのだから見たのでしょう。しかし、そんな個人的な体験を共有しろと言われても困るから、扱いづらいと思っているだけです。ただ、傍証や、体験者の年齢・学年との齟齬など、その体験談の信憑性に関わる部分の検証を、しっかりやって置こうと思っている訳で、例えば、川奈まり子「母校の怪談」の記憶違いの指摘では、一定の成果を上げ得たと思っています*1。――そう云えば、先日、殆ど書き込みのない当ブログのコメント欄に「自分の狭い常識で決め付けるな」と云うコメントが書き込まれました。2011年2月13日付「コメント欄について」や2013年12月31日付「記述の方針について」等に述べたように、コメント欄での意見交換をしないことにしておりますので返信はしません(かつ、所謂《晒し上げ》みたいになりそうなのでコメントも公開にしません)が、まさに、我が意を得たりです。私は「狭い常識」の外の理屈まで援用して物を考えようとは思っていません。その先は、受け容れられる、受け付けられない、そういう次元の話になってしまいます。ですから、差当り常識的な理詰めで考えようとしているのです。なるべく傍証を挙げるようにして、もちろん全ての関係資料を集める余裕のない暮らしをしておりますので、最低限、何を見て検討しているのかを明示して、やっておるのです。(以下続稿)

*1:残念ながら、川奈氏からこの点について何らかの反応があったかどうか。未だ気付かれていないのか、それとも単なるクレーマー扱いされているのだか。