瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

田口道子『東京青山1940』(08)

・写真(1)
 さて、2月6日付(06)に見た、本書の紹介文4種(仮に【A】~【D】とした)のうち、【D】を除く3種でまづ挙げられていた昭和15年(1940)の日記だが、2月7日付(07)に見たように引用されているのはその1割ほどに過ぎず、本書執筆当時の筆者の思いが反映された抜萃になっている。しかし折角、53頁5行め「一年間一日も欠かさず、たとえ一行でもつけ通したという」日記なのだから、出来れば全文、そうでなくても日常生活の流れが窺える程度の分量を引用して欲しかった。しかし紹介文【A】にあるような意図、すなわち日記を付けていた昭和15年「から5年、1945年の敗戦までどん底の生活の中でも幼い愛国心に燃え、小さなわだかまりを感じながらも逞しく生きぬいた人々を活写する」のが眼目であれば、日記は筆者本人にとって戦時体制下の(首都東京の都市生活を主とした)日本を描くための取っ掛かりに過ぎない訳で、その点、私のような全体の中に事件や行事がどの程度あり、そしてどのように位置付けられるかを確かめた上で論じたい人間にとっては少々期待外れの内容と云わざるを得ない。――確かに、282~283頁「あとがき」にも日記に触れるところが全くないのである。
 そして、筆者が日記本文と同様のウェイトを置いて蒐集に努めたと思われるのが、全ての紹介文に特筆されている「写真」である。【D】を除く3種には「貴重な写真」とあり、そして【B】を除く3種に「70点」と数量が強調されていた。それがどのようなものであるかは1月22日付(02)に第一章、1月23日付(03)に第二章、1月24日付(04)に第三章、2月5日付(04)に第四章について、細目の間に挿入して置いた写真のキャプションからも窺われるように、筆者の手持ちの写真を並べたものではない。
 その辺りの事情は、283頁14行め「二〇〇二年四月」付の「あとがき」に説明がある。すなわち、282頁2行め「原稿を書き上げたのは一九九九年六月二十四日」で、5~6行め「少しずつ加筆訂/正をして‥‥二年の歳月が流れ」、そして7行め「三年めに」なって、11行め~283頁5行め、

 ドラマというにはあまりにも大きな犠牲を払った時代の激動を、より多くの若い人たちにも/読んでもらいたいと願った私は、最近話題の本を次々と世に送り出している「岳陽舎」の森岡/圭介編集長にすべてを託した。果たして森岡氏は、あの時代に生まれてもいないのに、鋭い感/性でたちまちポイントを掴み、時代を表現する写真を入れてはとの提案があった。私は差し迫/った時間のなかで昭和戦前の写真探しに取りかかった。とても無理だと思われるところにも手【282】がかりを求め、電話し、情報があれば出向いた。そのおかげで記憶もすでに幻のようになって/いる写真にめぐり会えたときの感動は大きかった。一つひとつの写真とのめぐり会いにどっと/時代が戻ってきて、瞬時にあの頃という膨大な時空にタイムスリップしてしまえた。仕事とは/いえあの頃の写真や資料を懸命に見つけてくださった映画会社、製菓会社をはじめとする若い/担当者の方々に感謝したい。おかげで時代の雰囲気が見てすぐに伝わる誌面になった。

という次第で、平成13年(2001)夏以降に写真の蒐集を始めたらしい。そしてこれに、かなりの精力を注いだことが窺われるのである。(以下続稿)