瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(89)石造物④

・道了堂の石造物(4)
 昨日の続きで、やはり道了堂旧境内にあったものについての記述を抜いて置こう。
 11頁13行め~12頁7行め、

 昭和五十年一月に来て記録したときには完全な姿で建っていた、線/【11】刻観音像(明治二十年に大塚五郎吉らが寄進したもの)は、裏がえし/にたおされていて、今回観音であったか確認できなかった。これは、/高さ一四四・五センチ、幅五九・〇センチ、像高は四九・〇センチで/あった。
 高さ五一・〇センチ、幅三八・〇センチの「金神」は、「明治十七/年十二月」に建てられている。境内で最も新しい石造物は手水鉢であ/る。それには、「昭和十九年七月 安西喜三郎」とある。


 この昭和50年(1975)1月の記録を見たいものである。この線刻観音像については42頁〔58頁〕上段5~7行めに、

‥‥。右手に立つ線刻の観音像は明治二十年(一八八七)に大塚五郎/吉などが寄進したものだが、すでに碑面の剥離がすすんで図像はほとんど判ら/ない。‥‥

と記載されている。には142頁13行め~143頁7行め、

 こんどは本堂跡にむかって右手を見ましょう。線画で観音像を描いた石碑が立っ/【142】ています。一八八七年(明治二〇年)に、鑓水の生糸商人である大塚五郎吉など三/〇人ほどの人々が寄進したものです。まん中でふたつに折れていたのですが、公園/の開園に合わせて修復・再建されました。下の部分は傷みが激しく、表面がはが/れ、像の形がほとんど分からなくなってしまっているとはいえ、鑓水商人の活躍の/跡を伝えるたいせつな遺品です。さきほどの地蔵尊や石灯籠と同じく、相州煤ヶ谷/の同じ石工の名が読みとれます。このほか、年代の分からない石のお地蔵さまや、/昭和の年号のある手洗鉢なども残されています。

とあって、これらは前回見た石灯籠等とは反対側に並んでいることが分かる。「金神」碑は「武藏國南多摩郡由木村鑓水大塚山道了堂境内之圖」にも載っていて、現存しているようだがが取り上げていないのは場所が離れているからだろうか。従ってにも写真が上がっていない。それからでは石地蔵(立像)と手水鉢の写真に線刻観音像の解説を添えていて、齟齬を来している。
 以上、主としてにより、大塚山公園整備直前の昭和61年(1986)と、開園から10年を経た平成12年(2000)で、石造物はそのまま保存され、破損したものは修復が行われるなどされていたことが分かる。但し11年後の東日本大震災で延命児育地蔵や石灯籠が一部倒壊したらしく、現状はまた若干異なっているらしい。(以下続稿)