瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

武蔵野文化協会 編『武蔵野事典』(4)

 昨日までで記念号と市販版を比較しつつ内容と企画・編集の経緯についてざっと確認を済ませた。今回は内容について1編を取り上げ、気になった瑣事を論って置くこととしたい。
 500~573頁、人名編「武蔵野文化人名録」には、まづ500頁に坂詰秀一、すなわち武蔵野文化協会会長による序文に当たる文章がある。
 501頁「武蔵野文化人名録 凡例・参考文献」に16項に及ぶ記載要領を示してあるのだが、執筆者間にズレがあり、それを最終的に1人の責任者が徹底的に点検して不体裁を消して行く作業を怠ったものと思しく、凡例に合った体裁になっていない箇所がある。例えば、565頁上段13行め~下段13行め「森本 六爾」の中段7~11行め、

 また松本清張の短編小説『断碑』/(五四、『風雪断碑』から改題)の主人公・/木村卓治は森本がモデルとされる。墓/所 奈良県桜井市粟殿極楽寺(奈良桜井)。伝記に‥‥

とあるが「奈良県桜井市」と「(奈良桜井)」との重複が気になる。「極楽寺(奈良桜井)」で良かったのではないか。桜井市には他に極楽寺と云う寺はないので「粟殿」はなくても他と紛れない。なお「粟殿」の辺りは森本六爾が死んだ時点では奈良県磯城郡城島村だった。
 502~505頁「目  次」3段組で233名(のはず)。506頁から本文で573頁上段まで、573頁の残りは「武蔵野会・武蔵野文化協会歴代代表」として10名、顔写真に在任期間(年)を添えて示す。
 他にも奇妙なところがある。細かく見た訳ではないので流し読みしていて気付いた2つばかりを指摘して置く。
 森本六爾の4人前、564頁上段12行め~中段1行め、まづ2行取りで大きく「村越 知世」とあって下に割書で「むらこし ともよ  /一九一九~一九九八」と添える。1段落め(13~19行め)に経歴を示すが最後に「‥‥。武蔵野文化協会理事長/(九六~九八)。」とあるのである。理事長だった人の歿年が分からなかったのだろうか。市販版でもそのままである。つい20年ほど前に死去した会の役員のことが分からないとは思えない。現在遺族と連絡が付かなくなっているとしても*1、理事長の死去(もしくは退会)を現存の会員が誰も知らぬとは思えないのだけれども。
 521頁中段18行め~下段6行め「片山 迪夫 〈かたやま みちお/生没年未詳   〉」の前半、中段19行め~下段3行め、

 生地不詳。地域史研究家。奥多摩五日市町(のち春日部市に住んで、五/【中】日市町方面の郷土史研究に尽力。植/田孟縉編『武蔵名勝図会』校訂・解説/(六七)


 この生歿年も知られていない人物を取り上げたのは、『武蔵名勝図会』校訂本を出した業績を評価してのことであろう。しかし「奥多摩五日市町(のち春日部市」は訳が分からない。多摩川の上流部の奥多摩と秋川(多摩川支流)中流部の五日市は別の町で、境界も僅かに(約300m)接するばかりである。もちろん埼玉県春日部市である訳がないので「あきる野市」の誤りなのだが、どうしてこのような奇怪な記述になったのであろうか。市販版でも訂正されていない。会員頒布限定の記念号はともかく。市販版では訂正するべきだったろう。会員からの指摘はなかったのだろうか。
 この人物編「武蔵野文化人名録」には、個々の項目執筆者は表示されていない。記念号の【執 筆 者 一 覧】の最後、698頁下段「『武蔵野』創刊一〇〇周年記念号「武蔵野事典」刊行委員」に「編集委員(担当分野)」として1字下げで12分野、うち11番めに、

坂詰秀一・中沢正子・島田正人・矢嶋洋一        (人物編)

とあるが、市販版には、そもそも【執筆者一覧】がない。(以下続稿)

*1:9月29日追記】村越知世著の、東京都公園協会 監修・東京公園文庫15『多磨霊園』(一九八一年四月一日 第一刷発行・定価七〇〇円・郷学舎・150頁・新書判並製本)の歿後の増刷を見れば、奥付の「著者略歴」の住所・電話に替えて、歿年月日を記載しているであろうか。