瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

祖母の蔵書(43)

 以前は忙しかったので[改版]や[改装]など、とにかく都内の複数の区立図書館で借りて来た本を並べて比べてみるだけの記事で誤魔化していたと書いたが、当時はそれなりに真面目にやっていたのである。しかしそういうネタがなくなっていよいよ窮すると、過去の回想やらの[雑記]を書いて誤魔化していた。
 最近はそんなに働いていないのと、以前の半分も図書館から本を借りていないがその分、幾つか調査途上の課題に絞って借りるようになっているので、すぐに記事に仕立てられるような材料のないままに好い加減な記憶を手繰ってお茶を濁すようなこともせずに済んでいた。
 しかしどうも、その間にまた昔のことが思い出せなくなっているようである。書いてしまったことはその文字で定着してしまって、記憶としては急速に色褪せて、俄に思い出せなくなっている。しかし、書かないでいても思い出せないし、思い出すこともない。やはり書かざるを得ない。
 それはともかくとして、今日もどうも新しい記事に着手出来そうにない。
 書くことがない訳ではない。
 祖母の蔵書整理は、まだ3分の1も済ませていない。ここで止めては殆ど意味がなくなるので、最後まで完遂するつもりでいる。しかしながら、来月、地方から義父と義妹が上京して来て、都下の霊園に祖母の納骨をすることになった。いよいよ祖母宅の遺品整理も本格化しそうである。
 まぁ涼しくなって来たので、これまでのように持ち帰る必要がなくなる。これまでは、行って、換気して、マスクを外して、それでもなかなか汗が引かない。余りのんびりとしておられないので少し落ち着いたところで本を探して、持ち帰るために、或いは売りに行くために袋に詰めて行くのだが、動いているうちにまた汗ばんで、うっかりすると汗が本の上に垂れて、慌ててカバーに乗った滴を拭き取ったことも1度や2度ではない。幸い濡らして汚損するなぞと云ったことはせずに来ているが、破いたり折ったり曲げたりしたことは一再ならずある。――もちろん、物によっては持ち帰って確認したいところだけれども、殆ど手を着けて来なかった函入ハードカバーは、これからは祖母宅でメモすることとしよう。しかし、まだ、暑い。
 そんな訳で、整理が進んでいるとは言い難いのに記事が滞っている理由としては、――とにかく数を減らしたいので、ブックオフで処分出来るバーコードの付いた本から着手しているのだが、作家1人を1つの記事にする方針で始めてしまったため、今、1冊だけ、或いは3冊しかないような著者の分、そもそも祖母がそれだけしか買っていないのではなく、それだけしか著書(邦訳)がないような作家を、どうしようかと思っているのである。
 しかし、もう新たな発掘(?)はないだろうと思っていたのだが、8日の夕方に立ち寄って例によって一巡したところ、寝間の鏡台に紙袋があることに今更ながら気が付いた。場所が場所だけに、他の物が入っているのだろうと思っていた、と云う訳ではなく、何故か全く眼に入ってなかったのである。まぁそれだけ物が多いと云うことなのだが、何故気付かなかったかと自分でも少々驚きつつ中を覗いて見るに、池波正太郎剣客商売』の文庫版が揃いで入っていた。しかし、カバー背表紙に祖母が順番を油性ボールペンで書き入れており、かつそのカバー背表紙の黄色が相当褪色してしまっているので、揃いではあるけれども売物になりそうにない。私は今から池波正太郎を初めから読むようなゆとりを持てそうにないので、どうにかするしかない。そこで、本当に、着払いで(送料のみ負担してもらって)お譲りしたいと思っているのである。古本でも一から揃えるとなればそれなりに費用は嵩むだろうから、読めれば良い、或いは研究資料として使いたいと云う人、如何でしょうか。詳細は追って記事に取り上げるときに告知しよう。
 祖母は7月19日付(02)に見た佐伯泰英『鎌倉河岸捕物控』の最初の方の巻のカバー背表紙に番号を手書きしたシールを貼り付けていて、これはもう剥がしてシールだけ手帖に貼り付けて保存して本の方は処分してしまったが、祖母は原則として本に書入れをしたりしない人らしいので、だから巻の順番を分かり易く表示しないシリーズの小説を揃え(られ)なかったりダブリで買ったりしてしまうようなことにもなったらしいのだが、この『剣客商売』は晩年、少々耄碌してしまってから、枕辺に備えて番号をカバー背表紙に書入れてまでして愛読していたらしいのである。
 しかし『鬼平犯科帳』を、上製本『新鬼平犯科帳』のほぼ揃いに文庫版が2揃いに若干の余分が出るくらい買っていたのに『剣客商売』が全く見当たらないのはどうしたことかと思っていたのだが、実は寝ている間に一番近くに揃いで、置いていたのであった。
 こうした、揃いで新たに出て来た本を、ちょっと扱い兼ねている。持ち帰るにしても嵩張るし、紙袋に入っていたり、簞笥の抽斗に背表紙を上にして並べていたりしたせいで撓んでしまっているので、すぐに売りに出せる状態ではない。目下、司馬遼太郎の長篇2揃いを雑誌の下に積んで、重みで少しずつ矯正しているところである。
 納骨の日程も決まったところで今週から来月の初めに掛けて、整理を進めたいところだけれども、移動・輸送手段が自転車なので天候にも左右される。晴れて、いや曇りの方が良いが、涼しい日が続くと大いに捗るのだけれども。
 とにかく、書くことがない訳ではない、と云えば他にも「道了堂」は戦前に道了堂を訪ねて堂守に会った人の記事を探り当てているし、「白馬岳の雪女」も一通り原話・原典に当たるものを揃えている。そして「青木純二」についてはこれまで利用されていない本人執筆の支局時代の回想、そして青木純二の著述の影響を受けた「伝説」についても幾つか探り当てて、書くべき材料が幾らも溜まっているのだけれども、いざ書くと云う段になると、何が足りないとかどう切り出すかとかどう構成して進めて行くかだの、踏ん切りが付かなくなって妙案が出ないまま、書くことには困らないはずだのに書けなくて、困っているのである。(以下続稿)