瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(91)

・滝沢博「峠」
 7月9日付「米光秀雄・滝沢博・浅井徳正『多摩』(9)」に、滝沢博が担当した「峠」の章の最後の節「鑓水峠」について、図版を中心に一通り眺めて置いた。
 滝沢氏が鑓水峠を訪ねたのは、恐らく昭和44年(1969)の1月下旬である。冒頭で「多摩ニュータウンをはじめ」とする開発により「多摩丘陵やその中の村落が、破壊される前に、もう一度、この眼で見ておきたかった」と云うのだけれども、国道16号線で御殿峠を越えて鑓水の中心部まで乗用車で入り、武蔵野の新田開発や野猿峠、八王子織物、鑓水商人や困民党に思いを馳せつつ、道了堂まで歩いている。そこから北へと下っておれば、昭和45年(1970)から片倉台・北野台の開発で「破壊され」た地域について、まさに貴重な「この眼で見」た証言となっただろうと思われるのだが、道了堂から先どうしたか、何とも書いていない。しかし鑓水の中心部に「車を乗り捨てて」いるのだから、そのまま引き返したのだろう。だから実際には余り歩いていない。少々残念なことである。
 三差路から、151頁15行め~152頁6行め、

 二十分くらいで峠に達する。頂上の見晴らしの良/い所に道了堂というかなり大きなお宮がある。ひど/【151】く荒廃していて無惨である。自然の荒廃ならばまだしも、/人の手によってお堂も、石碑や石仏、植木までもこわされ/折られている。最近あちらこちらで見受けられる、あわれ/な社寺の末路である。
 石のきざはしの前に「絹の道」と大きく刻った二米もあ/る石柱が建てられている。‥‥


 この頃の道了堂については、昭和45年(1970)かそれより少し下る頃の撮影と思しき写真が2つある。1つは3月27日付(21)に見た新八王子市史民俗調査報告書 第2集『八王子市東部地域 由木の民俗』に掲載される中学校教諭堀口進撮影の写真、もう1つは3月25日付(19)に取り上げた、下柚木の指田徳司撮影の写真である。堂宇の正面は柱だけになり、側面の壁も半ば剥がされている。但し背面の壁はかなり存しているので、昭和50年(1975)前後の写真に比べると見通し(?)が悪い。滝沢氏が見たときも同じような状態だったのだろう。
 6月23日付(84)にて歴史の道調査報告書 第四集『浜街道に「無住となった堂はしだいに荒廃し」と書いてあるのを批判した。――全島避難していた三宅島や、福島県の帰還困難区域などを見ても分かるように、建物は管理する人間がいないと速やかに荒廃する。しかし、昭和38年(1963)9月の堂守老婆殺しから5年半も経っていないのに自然に、ここまでは荒廃しないだろう*1。現に、その後も20年以上、最後には殆ど柱と屋根のようになりながら建っていたのである。それだのに正面が5年余りで柱だけになっているのは明らかに人為的に扉や壁が破壊されたからで、この滝沢氏の余り具体的でない、短い記述は、上記写真の状況がどのように現出されたか、互いに相補って説明する材料として使用すべきものと思われるのである。
 いや、この人為的・組織的な破壊については、より具体的な資料も存するのである。しかしそれは余りにも具体的に過ぎるので、今月末くらいからぼちぼち取り上げることとしたい。明日は昨日まで書誌の確認をして来た佐藤孝太郎「八王子市の歴史」を、取り上げることとしよう。(以下続稿)

*1:厳密に云うと、見て確認出来る堀口氏・指田氏の写真が撮影されたと思しき「7年後」とすべきなのだけれども。明確な撮影時期が分かれば更に補強出来るのだけれども、50年以上前のことであり今から確認するのは難しいだろう。