瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

八王子市の首なし地蔵(4)

 八王子市『ふるさと八王子』所収「東西南北」の「首なし地蔵の昔話」の最後の段落、167頁下段7~15行めには、

 地蔵の前に/は、さい銭や/供物があった。/新しい住民が/増えたこの土/地で、今も人/びとの信仰を/つないでいる/ようだ。

とあって、昭和54年(1979)当時は信仰が繋がれていたようだ。いや、12月2日付(1)に紹介したHN「八王子 Lover」の動画では涎掛けも供え物もない*1が、2016年7月15日に「朱い塚-あかいつか-」が投稿した「首無し地蔵 東京都心霊スポット」は短いながら位置関係がよく分かる動画で、首なし地蔵を初めとする石仏4基には赤い涎掛けが掛けられ、水が供えられている。また、この動画では植込みの奥に小さな墓石が2つ、背後に板塔婆を立てて並んでいることも分かる。

www.youtube.com
 サイト「朱い塚-あかいつか-」の「首無し地蔵」は『ふるさと八王子』の記事によって由来を紹介している。しかしこの記事はいつ投稿されたのだか分からない。もちろん動画にしても、投稿日から余り隔たらぬ頃の撮影なのかどうか、分からない訳だけれども。
 そこで動画の方を見直したところ、植込みの背後の看板に「マサルオート」とある。
 現在は「(株) ワーク・ライフ東京」と云う自動車販売店になっている。
 これが撮影時期を探る手懸りになりそうだ。そこで改めて Google ストリートビューで現地を見るに、2010年4月と2014年5月は「マサルオート」であった。それが2015年2月には、現在と同じ「(株) ワーク・ライフ東京」の看板に変わっているのである。業種は同じらしい。
 そうするとこの動画は、夏らしく思われるから、投稿されたのは2016年夏でも、撮影されたのは2014年以前の夏と云うことになる。――安易に投稿日の頃の撮影と思い込むと、思わぬ間違いを犯し兼ねない。都市部では開発等で、一昨日見た日野台の首塚のように気付けばなくなっている。地方では手入れが行き届かなくなって荒廃し何処にあったか分からなくなった塚や石造物の類が多々あろうと思う。
 そのとき、往時を偲ぶために書籍の記述や写真、それからネット上の画像や動画が参考になるのだが、特に、失われてしまった場所の変遷を辿る場合、折角の画像であっても、撮影時期が特定出来ないと困るのである。その点、何処まで正確なのか分からないが、撮影時期を明示していて12年前まで遡ることの出来る Google ストリートビューの存在は心強い。地域や時期に偏りはあるけれども、地図や空中写真と組み合わせることで、行ったこともない場所の変遷を居ながらにしてある程度把握出来るようになった。
 確かに、個人情報だの何だの色々問題はあるのだろうが、細かくなくても時期を明示して欲しい。世間には、早とちりで投稿日の頃に撮影されたものと思い込んだり、或いは道了堂の火災――これについては、何故このような説が生じたのか、大体の筋が引けたので、近々当ブログでお披露目するつもりであるが――のように、ありもしなかったことがあったこととして語られ、それに合わせて記憶が捏造され、資料の解釈が捻じ曲げられ、そして歴史まで変えてしまいそうな勢いになっているのを目にすると、これは(詰まらんことではあるけれども、詰まらんなりに)何とかせにゃあなるめぇ、と思うのである。
 こうした誤解を防ぐためには、出来るだけ正確な情報の提示が不可欠になる。撮影時期が明示されておれば、わざわざ考証みたいなことをせずとも、そのまま安心して活用することが出来るのだから。
 さて今回、「さい銭や供物があ」ることで「信仰をつないでいる」と判断していることに引っ掛かって、8年以上前の「供物」に涎掛けが写った動画の存在を指摘したのは、賽銭があることが「信仰」の継続を語っているのか、不審に思ったからである。と云うのも、市公報での紹介から40年を経て、地元でもこの地蔵の由来が分からなくなってしまったらしい。今回はそのような状況を窺わせる資料の紹介にまで及ぶつもりであったが「朱い塚-あかいつか-」動画の確認に若干手間取ってしまった。明日に回すこととしよう。(以下続稿)

*1:最後に缶やコップ、皿などを集めて写しているので、撮影のために避けたのかも知れない。しかし長い間何の手入れもされていないらしい薄汚れ方である。