瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

八王子市の首なし地蔵(5)

・北八王子町会「北八王子だより」(1)
 北八王子町会は八王子市町会自治会連合会「東北部地区連合会HP」に拠ると2022年3月現在で230世帯、世帯数から見て、八王子市石川町の南端、北八王子駅、八王子市立第一中学校、八王子市立第八小学校と云った辺りをその範囲としているようである。
「北八王子だより」No.26(2019 年10月号)26・27 合併号 裏面あり
「北八王子だより」No.27(2019 年12月号)26・27 合併号 裏面あり
 合併号で裏表に No.26・No.27が印刷されているようだ。その No.26の最後の6条めに、

■ おねがい
  当地区焼肉「でん」横、中古車販売店脇にある、「首なし地蔵?」の謂れや言い伝えをご存知の方/  が居られましたら是非お知らせください、何らかの形で記録に残せたら良いと思っています。

とある。
「北八王子だより」No.28(2020 年2月号)
 7条中6条め、

■ 首無し地蔵
 前号で情報提供をお願いしたところ、北区の藤江さんと東区の浅見さんから貴重な資料をいただきま/  した、情報提供をありがとうございました。
 「昔、首をはねられたお坊さんのため地蔵を作って供養したが、どうしても/  地蔵の首が落ちてしまいしかたなく首が落ちたまま祀ったと語り継がれてい/  る … 」 (次号で詳しく紹介予定)

 正面から写した写真が掲載されている。なお No.26を「前号」と呼んでいるのは No.27と合併号だったからで、10月号だけれども12月に配布・掲示されたようだ。これに対し、早速2名、情報提供があった訳である。
「北八王子だより」No.29(2020 年6月号)
 その次号、紙面の半分以上を占める紹介がある。3条中3条め、

■ 首無し地蔵の伝説
  前々号で北八交番前の「首なし地蔵」についての情報提供をお願いしたところ、北区の藤江さんと/  東区の浅見さんから貴重な資料をいただきました、情報提供をありがとうございました。

と前置きして、藤江氏提供の「□首なし地蔵尊の由来   「ふるさと八王子誌」より」と、浅見氏提供の「□首なし地蔵   第八小学校元教諭 菊地 正著「とんとんむかし」より」を引用する。前号と同じ写真が、前者の本文の右側に掲出されている。
 前者は、その最後に1行「昭和55年9月 首なし地蔵尊保存委員会/北八町会厚生委員会 設置の表示板より転記」とあって、昭和55年(1980)1月刊行の『ふるさと八王子』を承けて、半年後に北八王子町会等が中心になって設置した、説明板の内容である。
 そうすると、40年前には北八王子町会でも保存に意を用いていたのであるが、特に何らかの行事をする訳でもなかったのでやがて忘れ去られてしまったようである。12月4日付(3)に引いた『ふるさと八王子』の「首なし地蔵の昔話」と比較しつつ、その本文を見て置こう。
 まづ、所在地と形状を説明した1段落めは省かれており、典拠の2段落め、

 この地蔵尊の首は時を経て取れたものではなく、最初からなかったと伝えられている。

から始まっている。次の、『ふるさと八王子』の典拠である清水成夫『八王子ふるさとのむかし話』に言及した1文は省かれている。
 そして段落を改めて典拠の3段落め、伝説を紹介するのだが、1字下げにしていない。しかしこれは後述するもう1話も同様だから、元々字下げしていなかったようである。異同としては加筆「‥‥、それを聞いた役人が怒って、僧の/首を‥‥」、次の1文は読点を省いており、「‥‥まま、祀った‥‥」ここは「ままま」と同じ字が3つ続いていたのを読点を加え漢字にして読み易くしている。
 典拠の4段落めは「また、」と「これと違う伝説も語り継がれている。」のみ残している。
 典拠の5段落めも1字下げなし、「‥‥ものが江戸の馬/方宿に泊った晩の。宿の近くで火事がありび出して」「中」「其の後この‥‥」「ないのは相模の石工が運んでる‥‥」
 典拠の6段落め、段落分けせずに続ける。「‥‥。首なし地蔵は、首から上の病気や首が回らないとき無病息災などの功徳があると言い伝えられて今も人の信仰をつないでいる。」典拠の7段落めも大部分を省いて繋げている。最後は「ようだ。」と曖昧になっていたのを「断定」している。なお、振仮名がないが元の説明板にあったかどうかは不明。
 この説明板が何時まであったか分からない。Google ストリートビューで閲覧出来る、最も早い時期の写真(2010年3月・4月)には写っていない。そうすると設置から39年、失われてから9年以上経って、世代交代も進み、首なし地蔵の由来を知らない役員ばかりになってしまった訳である。
 尤も、この辺りには明治41年(1908)に現在の八王子市立第八小学校が出来るまで全く人家がなく、今のように人家が建て込むようになったのは戦後のことで、だからこそ石川町の南東部、八高線の東、中央自動車道の南に北八王子工業団地を造成することが可能だったのである。そもそも地元の住民と云っても移住して来た者ばかりなので、昔のことを知らなくても当然で、さればこそ No.26での呼び掛けにも、結局訳知りの古老ではなく以前設置されていた説明版と民話集が出て来るばかりだったのである。
 そうすると、『ふるさと八王子』に載る2つの伝説を語り継いでいたのは誰なのか、どの辺りの人がこの地蔵を信仰していたのか、と云ったことが、気になって来るところなのだけれども。(以下続稿)