瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

八王子市の首なし地蔵(3)

 昨日は清水成夫『八王子周辺の民話』及び『八王子ふるさとのむかし話』に言及されている、日野原(日野市日野台)の首塚の場所と伝承について確認するうち、何時なくなったのかの検証(と云うか見当を付けること)で長くなってしまった。八王子市石川町の首なし地蔵に戻ろう。
・八王子市『ふるさと八王子』
 本書には地元の史籍や伝説に関する八王子市広報の連載が纏められているが、11月3日付「東京都八王子市『ふるさと八王子』(3)」に見たように、昭和53年(1978)12月~昭和54年(1979)11月の連載は「東西南北」なる題で、その(恐らく)9回め、昭和54年9月1日発行の号に掲載されたのが、166~167頁「首なし地蔵の昔話」である。
 本文冒頭を抜いて置こう。166頁下段1~5行め、

 市立一中の西側。都道の傍らの角地に、首/の取れた小さな地蔵尊がある。よだれかけが/なければ、ただの石の塊にしか見えない。土/地の人たちは、これを「首なし地蔵」と呼ん/でいる。


 166頁上段には写真が掲載されている。『八王子周辺の民話』に掲載されているものより鮮明であるが「よだれかけ」が掛かっているため同じものなのかどうだか、よく分からない。八王子市立第一中学校は167頁下段左下の略地図に「1中」と記載されている。12月2日付(1)には場所の目安として八王子警察署北八王子交番を挙げて置いたが、この交番は第一中学校の校地の西南の角に、昭和40年代に設置されたようだ。
 続いて伝説の紹介になる。6~10行め、

 この地蔵尊の首は、時を経て取れたもので/はなく、最初からなかったと伝えられている。/そして清水成夫氏の著した「八王子ふるさと/のむかし話」には次のような伝説も載ってい/る。


 11月30日付「清水成夫『八王子ふるさとのむかし話』(11)」に見たように「東西南北」に先行して八王子市広報に連載された「ふるさと八王子」の記事は『八王子ふるさとのむかし話』には少なからず転載されている。ここでは反対に『八王子ふるさとのむかし話』の記事が「東西南北」に利用されている訳である。
 11行め~167頁上段5行め、

 昔、相模の旅僧が荒れたこの土地を見て、/為政者の無能を批判し、それを聞いた役人が/【166】僧の首をはねてしまったのである。哀れに思/った土地の人々は地蔵を作り、僧の供養をし/た。ところがこの地蔵、何としても首がころ/げ落ちてしまうので、やむを得ず首のないま/ままつったということである。


 首のないまますたすた歩いて、この地蔵が立っている辺りで(以前は北にある八王子市立第八小学校の校地にあったのを移転したとのことだけれども)方角を失って倒れた、と云う件が省かれている。
 しかし「相模の旅僧」は何処で首を斬られたのだろうか。清水氏が挙げている日野原(日野台)の首塚にも、昨日見たようにほぼ同じ話が伝わっており、そこに「首が納められている」と云うのであるから、日野の話と掛け合わせれば、日野原(日野台)で首を斬られ、身体はこの辺りまで歩いて来たことになる。尤も日野原(日野台)の話には首のないまま歩いて石川村(八王子市石川町)のこの辺りで倒れたと云う件はないのだけれども。
 本書「東西南北」も日野原(日野台)の首塚には触れていない。
 さて、本書でも167頁下段4~6行め「‥‥、首から上の病気や首が回ら/ないとき(忙しいときや金に工面がつかない/ときも)功徳*1があると‥‥」とその効験に触れるのは『八王子ふるさとのむかし話』を引き継いでいるが、その前に異説を紹介している。167頁上段6行め~下段3行め、

 少々むごいが、今も残っている話である。/また、地蔵の周辺地域には、これと違う伝説/も語り継がれている。
 この土地で馬方をしていた者が、江戸の馬/方宿に泊った晩のこと。宿の近くで火事があ/り、とび出してみると、あんまが小さな包み/を抱えて途方に暮れていた。それを見た馬方/は、包みを奪って逃げてしまった。包みの中/味は金であったという。その後、この馬方は/不幸が続いたため、あんまの供養に地蔵を作/【167上】ったということである。地蔵の首のないのは/相模の石工が運んでくる途中で割れたのだと/いう。


 この話は何に由来するのだろうか。取材源を知りたいものである。
 この辺の石仏に「相模の石工」の手に成る物が多いことは6月27日付「道了堂(88)石造物③」に見た道了堂跡の石造物からも察せられる。しかし、これでは首がない理由には(弱いながらも)なっているが、首をすげないままにした説明には、なっていない。(以下続稿)

*1:ルビ「 く どく」。