瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

八王子市の首なし地蔵(2)

 昨日引用した清水成夫による2種の「首なし地蔵」のうち、気になるのは「現在の第八小学校の敷地内にあった」との記述である。
 何故なら、現在位置は岐れ道で方角を失って倒れた、と云う話の内容に良く合うからである。八王子市立第八小学校の敷地では、周囲にそれらしい分岐もない。
 実際にはどこの分岐なのだろう。現在地に移される前は、どちらの道に面して祀られていたのだろう。そして『八王子周辺の民話』に「現在跡形もない」と説明されていたのは何故なのだろう。
 八王子市立第八小学校HPの「学校概要/沿革」を見るに、まづ明治6年(1873)条に「神奈川県石川村西蓮寺内に三和学校創立」とある。西蓮寺は現在の八王子市石川町13番地、第八小学校から北へ谷を下って谷地川を渡った先にある宮下集落にある。明治25年(1892)条に「為則尋常学校と改称」、明治41年(1908)条に「現在地に校舎竣工、10月11日に開校式を挙行、この日を開校記念日と定める」とある。そうすると首なし地蔵の移転はこのときか、或いは次の大正15年(1926)条「校地拡張、南側校舎移転増築」のときのことだったろう。
 昭和10年(1935)条「小宮町第一尋常学校と改称」は前年の東京府南多摩郡小宮村の町制施行を受けてのものだろう。そして昭和16年(1941)条「八王子市と合併、八王子市立第八国民学校と改称」昭和22年(1947)条「八王子市立第八小学校と改称」と現在の名称になっている。昭和24年(1949)条「大和田分校開設、25m7コースプール完成」とある、プールはこの頃の航空写真を見るに、校地の西南隅にあった。この大和田分校は八王子市立第十小学校の前身らしい。昭和28年(1953)条「大和田分校独立、この年から3年間第十小学校区児童移籍」とある。昭和42年(1967)条「防音校舎完成、集中暖房方式を採用、校舎落成」とあるのは耐震工事を経て現在も使用されている校舎である。そして昭和53年(1978)条「新校舎(南校舎)建設、屋上プール建設」によって現在の校舎配置になったようである。
 「石川町と日野市の境に」あると云う「首塚」だが、日野台3丁目1番にある。このブロックは北西側が八王子市石川町に接しているが、日野自動車本社を中心とした非常に広大なブロックで、首塚のある北東隅は石川町からは600m程離れている。場所はHN「ご〜ご〜ひでりん」のブログ「古墳なう」の2013/12/12「「首塚」」及び同氏作成の Google マップ「古墳なう」によって判明する。
 但し「古墳なう」の Google マップでは「現存」としているが、現存しない。
 「古墳なう」のブログ記事に掲載されている写真が撮影された2013年11月の時点では、高さ数十cm、幅も1mに満たないように見える小さな塚と、その脇に木造の小祠があった。HN「ご〜ご〜ひでりん」はこれについて「元々は塚の上に祠が建てられていた」のが、何らかの変災により「祠は塚から下ろされて置かれ」たものと推測している。
 確かに元々塚の上にあった何かがなくなったように見え、そして祠は何もない草地の上に置かれているように見えるのだが、「古墳なう」に掲載されている写真2種はいづれも背面から写したものなので、今一確証が持てない。
 そこで Google ストリートビューを過去に遡って確認するに、車道側から写した写真を幾つか閲覧出来た。
 2010年3月の写真では、道路脇の草地の中の小さな塚の上に、祠が建っている。4段ほどの石段、祠の前には小さな石の手水鉢などがある。
 HN「ご〜ご〜ひでりん」は「先の大地震」すなわち2011年3月11日の大地震を「祠」が「塚から下ろされ」た理由と考えている。しかしながら、日野市の住民らしいHN「コナンの父 V3」の2020年6月5日13時19分の tweet に拠ると、2013年頃の台風がその理由らしい。


 確かに2010年3月の写真を見るに、安定しない建ち方をしている。強風で礎石から柱が外れて不安定になり、倒壊の恐れが出て来たので下ろしたのではないか*1。2010年3月の時点で、この辺りは鉄パイプで作った柵で囲われており、道路用地であることを告知しているらしい看板が設置されている。すなわち、いづれ撤去する予定だったので修復はせず、不安定なまま放置する訳にも行かぬので草地に下ろしたのであろう。
 2014年4月と2015年11月の写真は「古墳なう」ブログ及び上記のHN「コナンの父 V3」撮影の2014年10月の写真と変わりない。
 2018年6月の写真では一面雑草が生い茂り、祠がなくなっているように見える。但し「ご〜ご〜ひでりん」は上記記事のコメント(2019/09/27)で「グーグルマップで見てみると、2018年6月の時点ではまだ祠は残されているようです」と述べているから、現在閲覧出来なくなっているアングルからの写真では、雑草の陰に写っていたのであろうか。
 この点は、HN「★ブラタタリ★祟り・幽霊・妖怪★」の午後7:41 · 2018年5月6日19時41分及び19時48分の tweet の写真が参考になる。
 但し「古墳なう」の記述を基にしたらしい説明文は「頭蓋骨が出土した塚」或いは「日野原の稲作を効率よくしよう」など、少々問題のある書き方となっている。日野原は水利の面から見て稲作には適しておらず、明治期は畑か桑畑、大正期は一面の桑畑であった。しかし写真は鮮明で素晴らしい。そして、この、祠が開扉した状態の写真によって、上記HN「コナンの父 V3」のスレッドにあったように、この祠が「首塚稲荷」であることが良く分かるのである*2
 2019年9月の写真も同様に雑草が生い茂っている。こちらの写真では祠が存在しない、つまり撤去されていることが確認出来る。
 2020年11月の写真では道路脇の草地は全て均されて、アスファルト舗装されている。
 この工事の時期は、HN「杜すいとん 行きたいところばっかし」の2020年5月5日18:42の tweet の頃である。
 さて、上記 tweet にも言及・引用されていたが、この首塚については、八王子市石川町の首なし地蔵に伝わるものと骨子が同じ話が伝わっていたようで、日野史談会の機関誌「日野の歴史と文化」第17号(昭和57年8月30日発行・27頁)2頁、「日野の昔話特集号(1)」の4話めに「首塚」として掲載されている。「日野の歴史と文化」第17号は第18号(昭和58年3月30日発行・19頁)とともに「日野の昔話特集号」であった。本誌は未見、最も早くネット上にその存在を報告した(らしい)「古墳なう」ブログ記事から引用させてもらうこととする。

昔一人の遊行僧が、旅から旅へ説教をしながら来たところ、日野原があまりにも荒れ果てていたので、これはこの地を治めている者の力が足りないのだといいふらした。これを聞いた役人が怒ってその坊さんの首を一刀のもとに切り落としてしまった。ところがその坊さんは首を切られてもなお代官所へ向って歩き出したがまもなく倒れて死んだという。役人や村人は坊さんのたたりをおそれて坊さんの遺骸を埋めて塚を作り、首塚としてねんごろに葬った。それが首塚であるという。(日野史談会『日野の歴史と文化 第17号』2ページ)


 日野の人は八王子市石川町の首なし地蔵のことは、どう思っているのだろう。知らないかも知れないが。(以下続稿)

*1:地震・台風等で転がり落ちたのなら倒壊しなかったとしてももう少々傷んでいそうなものだから、やはり人為的に下ろしたのであろう。

*2:白狐の陶器が幾つか認められる。撤去直前で御神体を運び出した後なのであろう。HN「コナンの父 V3」の写真でも、扉に宝珠が描かれていることから、稲荷と察することは出来るのではあるが。なお10月23日付「鑓水の地名(1)」に述べたように、私の入学した小学校の近くにも「首塚稲荷」があった。首塚には稲荷が付き物なのだろうか。