瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

柴田隆行『片倉の自然』(4)

 柴田氏の出身地は①38頁8~9行め③39頁2~3行め「‥‥、多摩川辺り*1|で子供時代/を過した私にとっては、*2旧知のもので、今でもこの声を聞くと少年の日々を|思い出す。」とあるが、①56頁1~8行め③55頁12行め~56頁5行め、

 片倉に越して来てから、夏の楽しみがひとつ増えた*3。それは、クマゼミの声を聞くこ/|とである。クマゼミ多摩川が北限と言われ*4ている。世田谷で生れ*5育った私は、そ|【55】の頃/はまだ田や畑、雑木林の残る自然の中で、昆虫博士と言われるほど昆虫に熱中し|たもの/だが、ついにクマゼミの声を聞くことがなかった。ある年、大阪へ行って、*6町の*7|中の街/路樹でクマゼミがあちこち鳴いているのを聞いて、大変驚いたことがある。藤|沢市の親/戚の家の近くでもクマゼミの声を聞いたが、日本(本州)一大きく、*8黒い体の|クマゼミ/は、私の少年時代の憧れの的だった。片倉へ越して来た翌年の夏、‥‥

とあって「多摩川辺り」が世田谷区であること、そして近年、八王子市片倉町に転居したことが分かる。
 奥付に記載される柴田氏の住所「八王子市片倉町一二〇〇-××」は、所謂「絹の道」の東側の尾根を造成した新興住宅地で、昭和49年(1974)12月31日国土地理院撮影の航空写真(CKT7416-C34-16)では飯場らしいプレハブが4棟写っていたが、昭和54年(1979)11月14日国土地理院撮影の航空写真(CKT791-C29-15)には現存している住宅が写っている。従って、この間に新築転居したもののようである。昨日見たように本書には「一昨年(一九七八年)」の記述が2箇所あるのでそれ以前、ここに「片倉へ越して来た翌年の夏」とあってこれが一昨年でないとすれば昭和52年(1977)、そうするとその前年の昭和51年(1976)から片倉町に住み始めたことになるが、どうだろう。
 片倉町には世田谷から直接移転したように思われる。①82頁2~③80頁2~6行め

 世田谷の代沢に佐伯敏子さんという老婦人がいる。もう何年も前から庭に来る野/鳥|達*9の写真を撮り続け、自作の短歌と共*10に、これまで写真集を三冊自費出版してい|る*11。そ/の写真集を見ると、世田谷にもこんなに多くの種類の野鳥が来るのか、*12と驚かさ|れる。/そこで、私も世田谷に住んでいた頃、二坪程*13の小さな庭に来る野鳥を観察し|たことがあ/った。‥‥


 世田谷区立図書館OPACで検索するに、次の3冊である。
・『庭にくる鳥-佐伯敏子写真集-』1962年・非売品・佐伯古文研究所・70頁
・『庭にくる鳥-佐伯敏子写真集-その後』1966年・非売品・佐伯古文研究所・53頁
・『庭にくる鳥-佐伯敏子写真集-3』1976年・非売品・佐伯古文研究所・85頁
 佐伯敏子(1906.3.12~1984.10.11)は国語学者佐伯梅友(1899.1.13~1994.10.12)の妻*14で、短歌結社「アララギ」会員としては旧姓の梅村敏子を名乗っていた。Wikipedia「佐伯敏子(写真家)」項に歿年月日が入っていなかったが「アララギ」第七十七巻第十二号(昭和五十九年十一月廿五日印刷・昭和五十九年十二月 一 日発行・定価九百円・アララギ発行所・174頁)167頁、吉田正俊「編集所便」により歿年月日を補って置いた。
 3冊めは本書①刊行の4年前だが、1冊めは柴田氏が中学生の頃、2冊めは高校生の頃に刊行されている。それはともかく、片倉に転居当時柴田氏はまだ20代、昭和52年(1977)に大学院博士課程を満期退学して大学の非常勤講師を始めている。もちろん柴田氏が主導して転居したとは思われないので、本書には全く登場しないが柴田氏の父親が、世田谷の家を売却するかして郊外の新興住宅地に転居したのに従ったのであろう。
 この写真集は学校図書館に寄贈されてあったのだろうか。学校のことは、①89頁3~6行め③87頁3~7行め、

 私の生まれ故郷は多摩川(世田谷区尾山台)である。と言って*15も、母がよく冗談で|言/っていたように、多摩川の橋の下から拾われて来たわけではない。しかし*16、中学生の頃/まで毎日と言ってよいほど多摩川で遊んだ。私の通った|小学校は、*17多摩川べりの分校/で、教室の窓から、*18晴れていればほぼ一年中富士山が眺めら|れた。‥‥


とある。尾山台と云う地名は昭和5年(1930)4月1日開業の東急大井町線尾山台駅に由来するらしく、昭和13年(1938)1月に尾山台小学校創立、そして世田谷区玉川尾山町とその周辺が住居表示実施で世田谷区尾山台になったのは昭和45年(1970)3月1日である。
 世田谷区立尾山台小学校HPの「学校概要 >沿革」によると、昭和「33.4.1」条に「分校設置」、昭和「36.4.1」条に「分校が玉堤小学校として独立」とある。その世田谷区立玉堤小学校HPの「学校概要 >沿革」を見るに「昭和33. 5.17」条に「世田谷区立尾山台小学校分校として発足(1~3年5学級)」とあり、次の「33. 5.17」条に「開校記念日設定 新校舎に移転 授業開始」とある。昭和33年(1958)4月の段階では尾山台小学校で授業をしていた、と云うことなのであろうか。そしてその次の「36. 4. 1」条に「東京都世田谷区立玉堤小学校として独立/初代校長 板倉 哲四郎 就任(1~6年)10学級」とある。
 柴田氏は昭和24年(1949)生だから、早生れであれば恐らく入学した尾山台小学校にそのまま通い続けることになったはずであるが、早生れではなかったので昭和33年度には小学3年生で分校の最上級生、6年生になった昭和36年(1961)4月に玉堤小学校となり、その第1回卒業式で卒業したことになる。中学校も地元で、尾山台小学校の近くの世田谷区立尾山台中学校に通ったのであろう。(以下続稿)

*1:③「べり」。

*2:③この読点なし。

*3:③読点なし。

*4:③「いわれ」。

*5:③「生まれ」。

*6:③この読点なし。

*7:③読点なし。

*8:③この読点なし。

*9:③「たち」。

*10:③「とも」。

*11:①は読点2つとも半角。

*12:③この読点なし

*13:③「ほど」。

*14:佐伯梅友との結婚については、下北沢「古書ビビビ」経営の徳川龍之介の2010年6月11日14:52 の Tweet に『庭にくる鳥 3』巻末にありと。

*15:③「いって」以下2箇所(計3箇所)も同じ。

*16:③「そうではないけ|れども」。

*17:③この読点なし。

*18:③この読点なし。