瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(126)

 昨日の続き。
・村下要助『生きている八王子地方の歴史』(2)
 本書は一種の奇書として現在でもネット上でたまに取り上げられている。素人の郷土史家・古代史愛好家が一気呵成に書き上げたもので、何だか勢いがある。自分語りが多いが、村下氏のキャラクターが立っている、所謂「キャラ立ち」しているので、その部分も村下氏一流の見解と合せて読ませてしまう。なお本書に言及する場合、標題に「地下たび族が書いた」を冠することが多いのは書影の通り、カバー表紙にやや大きく「地下たび族が書いた」とあるからで、邪馬台国は決定した【後編】』のカバー表紙には標題よりも大きく「二十世紀末の/地下たび族が/書き残す/日本の古代史」とあって、前回引いたように「地下足袋」を履いて自営で働いて来た、無学な鉄筋屋の自分が書き上げたと云うことが、本人にとっても自慢の種となっているのであろう。しかしながら標題は奥付にある通り「生きている八王子地方の歴史」で良かろうと思う。カバー背表紙・本体背表紙は「〈生きて/いる 〉八王子地方の歴史」、扉は横組みで「生きている/八王子地方の歴史」、1頁(頁付なし)中扉は「地下たび族が書いた/ 「生きている八王子地方の歴史」」、6~14頁(頁付なし)「目次」の6頁1行めの題は「地下たび族が書いた「生きている八王子地方の歴史」/目次」である。
 2~3頁(頁付なし)見開きは[由木地区要図]、4~5頁(頁付なし)見開きは[由井地区要図]で前回引いた「おしまいに」にあったように、この2地区が元来の村下氏の担当であった。しかしながら八王子城跡についても纏まった記述が、161~309頁「いろいろな話」の章の最後の4節にある。その1節め、380頁9行め~389頁8行め「八王子城跡」の冒頭、380頁10行め~381頁11行め、

 十月も終る頃、清水睦敬先生から「元八を書く者がいないで困ったよう。誰もいないんだなあー、/村下さんはどこでもよくあるいていて知ってるから、一つやってみてくんねえかなあー、元八は話が/多くていいんだけどなあ、ちったあおくれたっていいやなあ、一番遅くに出しゃあいいからな、一つ/頼まあね」
 というから、「そうね、私も誰が元八を書くようになっていたっけか、などといつも思っていまし/【380】たよ、そうですか、元八は八王子城があるからほんとう/に面白い所ですよ、でも、私も由木・由井で四百四、五/十枚書いているでしょ、もう系図や写真を入れれば私の/分で一冊でしょうよ。私はお断り致しますよ、それにね/え、少しどうしても他地区を喰っちゃってますからね。/岸田先生の横山なんか先生に叱られるかも知れません/よ」と電話で話をした。
 清水先生は「まあそう言わないで少しでも頼まね、由/井・由木と一緒でいいですよ、八王子城を書く分にゃ、/誰だって読んでわかることだし、ちっとべえ頼まね」と/いうのでした。


 381頁の1行字数が少なくなっているのは13行めまでの上部に「八 王 子 城 跡」として深沢山を撮した写真を掲載しているからで、ここから後は10月下旬から「おしまいに」の日付、11月15日までの執筆と分る。清水睦敬は2022年11月23日付「清水成夫『八王子ふるさとのむかし話』(4)」に見たように八王子の郷土史家・清水成夫の号である。
 清水睦敬がこの有峰書店新社で計画されていた、八王子市の地域別郷土史シリーズの世話役のような立場であったことは、4節めの406頁2行め~409頁「八王子城を愛し、護る人たち」の終り近く、409頁11~14行め、

 清水睦敬先生から八王子を何人かで書くようになったから、村下君は由木・由井を中心に頼むとい/われ、二十日もかかってつくってみた。あげく元八も頼む人がいないので、少し書くようにたのまれ/た。だが書いてみたら全部こなすような話になってしまった。元八の方にはたいへん申し訳ないと思/っている。‥‥

とあって、「おしまいに」にある昭和58年(1983)2月19日の「六、七人の先生方と下話をする会」は、清水氏の人選であったらしい。但し清水氏本人は『八王子ふるさとのむかし話』も自刊で有峰書店新社から本を出していない。そしてやはり前回触れたように『八王子ふるさと風土図・Ⅰ加住丘陵編』と本書の2冊しか、有峰書店新社からは刊行されなかったようだ。
 しかし、この分量を「二十日」で書いたのは速いと思うが村下氏は「二十日もかかって」と繰り返し述べているところからして長くかかったと考えているようだ。その分、確かに検証が足りないのだけれども、それだけ、当時の村下氏が確信していたところを正直に書いている訳で、しかし次回以降検討していくように、余りにも正直に書き過ぎているところもあるのである。(以下続稿)