瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森満喜子「濤江介正近」(6)

 前置きが長くなったが、森満喜子『沖田総司抄』所収「濤江介正近」の本文を見て行くこととしよう。
 森氏は昭和48年(1973)に村上孝介に会って浮州の短刀を見せた際に、昭和44年(1969)刊『刀工下原鍛冶』をもらったはずである。会わずに送ってもらったのかも知れないが。
 その106頁3行め~259頁2行め「XI. 下 原 刀 工」の「66. 正近,正親」の内容は11月12日付「大和田刑場跡(14)」に摘記して置いた。
 森氏はここの記述を基本設定にしているようだ。
 ただ、村上氏が明確に説明していない部分は、かなり(と云うか恐ろしく)自由に想像を膨らませて書いている。
 まづ驚かされるのは51頁6行め、濤江介を「日野に住む村鍛冶」に設定していることである。
 これは、――ある夕暮れ、仕事場に入って来た、49頁4行め「宗次郎」と云う、48頁7行め「眼の澄んだ五、六歳の男の子」に、鍬を作っているところを見られて、17行め「刀は作らないの」と言われたことに50頁2行め「不意に電撃にでも会ったような衝撃を受け」て、12行め「刀鍛治になりたい、という希求」を抱くようになった、と設定したためで、即ち幼少期の沖田総司の示唆により一念発起して刀鍛治になったことにしているのである。
 日野の住人に設定したのは『定本 沖田総司――おもかげ抄』9~14頁「一 生い立ち、家系」に、13頁15行め~14頁1行め、

 沖田家は、総司が生まれた頃までは白川藩の扶持を受けていたらしいが、その後、藩の財政上の理/由で藩士を大量に解雇した時に、その犠牲となって藩籍から離れ、浪人になったらしい。浪人となっ/てからの父林太郎元常、みつの夫の林太郎房正は、いったい何をして生計を立てていたのか不明であ/るが、子母沢氏によれば、「日野附近に住居したもののごとく」とあるから、きっと親類縁者の多い/【13】日野へ引越したのであろう。

沖田総司が幼少期、日野に住んでいたと考えていたからである。――当時の森氏の考えを知るには『定本』ではなく『新選組覚え書』所収の「おもかげ抄」に拠るべきなのだが、今は仮に『定本』に従って置く。それから、その後の研究の進展で誤りであることが明らかになった説明もあるだろうが、私としては森氏がどのような前提で本作を書いたかが分れば十分なので、沖田総司については『定本』以後の知識は援用しない。但し酒井濤江介正近については当ブログに蓄積して来たことどもと対照させて齟齬、そして森氏の創作部分を指摘して行くつもりである。
 「親類縁者の多い日野」と云うのは13頁6行め、姉「みつの母は日野の宮原家の出身」で、姉みつの夫が10行め、日野の「井上分家」の出と云うところから、本作でも49頁8行め「おれにはお父さんもお母さんもいない」と言う宗次郎は、10行め「だけど、姉さんがいるよ」と、姉夫婦とともに親類に身を寄せていることを示唆している。
 いや、沖田総司が日野に住んでいたことになっているのはそれで良いとして、日野との縁が何も指摘されていない濤江介まで日野の住人にしてしまったについては(もちろん幼児の沖田総司の提案で刀鍛冶になったと設定したためだが)次のようにして済ませているのである。50頁12~15行め、

‥‥。刀鍛治になりたい、という希求/がことし二十歳の濤江介の胸に渦を巻きはじめていた。すでに親も亡く、養うべき妻子もいない。/生国は奥州白河ときいているが、物心がついた頃から日野に住んでいた。付近の人は口数の少い/この鍛冶屋をそれでも腕は確かなので、


 さて、森氏は沖田総司の年齢について『定本』12頁15~16行め「‥‥没年の慶応四年は二十五歳、誕生は弘化元年(あるいは天保十五年、この年十二月に弘化と改元された)ということが推察できる‥‥」としていた。尤も『定本』208頁12行目~213頁「補  遺」には小島鹿之助『新選組両雄伝』に212頁8行め「年二十有七」とあることに触れ、14~15行め「‥‥、今まで二十五歳が通説になっていたが、小島鹿之助は近藤、土方、沖田等とは親しい/仲であり、年齢を誤ることはまず考えられないと思う。」と二十七歳説を有力なものとして追加している。
 それはともかく、本作執筆時の森氏は、沖田総司(1842/1844~1868.五.三十)を天保十五年(1844)生と考えていたはずだから「五、六歳」は嘉永元年(1848)か嘉永二年(1849)と云うことになる。仮に嘉永元年とすると「ことし二十歳の濤江介」は文政十二年(1829)生ということになる*1
 11月13日付「大和田刑場跡(15)」及び11月26日付「大和田刑場跡(27)」に見たように、濤江介正近が寛政十一年(1799)生だと森氏が知ったら、どう書いただろうか。後者に引いた石井昌国 編著『日本刀銘鑑』第三版では濤江介正近の小比企居住は天保末年からとしていた。幼少期の沖田総司との接点は考えられない。いや、11月11日付「大和田刑場跡(13)」に引いた村下要助『生きている八王子地方の歴史』では、磯沼家文書を根拠に天保六年(1835)移住説を唱えていた。沖田総司の生れる数年前である。
 村上孝介『刀工下原鍛冶』の「66. 正近,正親」に挙げている年号は文政・嘉永安政文久と云ったところで、天保の年号はなかった。そして正近が2代あった場合の親の方が「文政」もしくは「嘉永頃」と云うことになっていた。そこで遅い方に寄せて設定を考えたようである。――石井昌国 編著『日本刀銘鑑』は昭和50年(1975)初版、村下要助『生きている八王子地方の歴史』は昭和59年(1984)刊、もちろん本作執筆時の森氏は知らなかったことなのだけれども。(以下続稿)

*1:12月19日追記文久三年(1863)に「三十五歳」でここの計算と合致することを12月19日付(11)に確認した。