瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(369)

・松尾羊一『テレビ遊步道』(2)
 昨日の続き。
 松尾氏は翌週(Ⅱ)132頁12行め~134頁3行めに、再度赤マント流言に触れている。

赤マントと酒鬼薔薇                       七月十一日
 「おい、赤マントってなんのことだ」と何人かの友人から問い合わせがあった。い/つだったかこのコラムで唐突に触れた個所だ。
 あのころ朝礼で私たち小学生に校長が訓示したものである。
 「赤マントが徘徊しているという噂がある。日暮れになったら家に帰るように」。/東京の下町一帯に広まった根も葉も無いデマに子供たちはおびえた。思うに当時人/気の紙芝居「黄金バット」に人さらいの風説がからんだものらしい。泥沼化した日/中戦争の打開策もなく、先行きの見えない時代のことである。【132】
           *          *
 例の少年惨殺事件は一応の解決をみたはずなのに、テレビでは相変わらず母親た/ちに付き添われて集団登下校する小学生たちの風景を連日のように報じている。
 そのニュースを見るにつけ、ふと思い出したのが赤マントだった。もちろん戦前/の赤マント騒動とはちがう。「酒鬼薔薇」と名乗った少年をめぐる事件は現実に起こ/ったのだから。
 まず各局のワイドショーなどには「目つきの鋭い三十男」「白いセダンの不審車」/「黒いビニール袋を持った中年男」「身長は百七十センチ以上のガッチリした体格」/「インターネットを操る中年パソコンおたく」などなどの「目撃情報」が一斉にあ/ふれ出したものである。結果、情報過剰のなかで中年の「犯人像」が独り歩きしは/じめた……。
 ひるがえって赤マントはどうであったか。世相風俗をめぐる町民のラチもない噂/話は、「天にくちなし人をしていわしむる」〝妖言*1〟とし、ときの将軍綱吉は厳しく/取り締まったという(今田洋三「江戸の禁書」吉川弘文館より)。赤マントもその類/いで、近代国家になっても噂話を社会不安のもとだと弾圧し、情報を独占し、都合/の悪いニュースを密封したのである。
 妖言にしろ、流言蜚語*2にしろ、ルーマーであれ、それらは情報に飢えた民衆が互/いに流布しあう(ためにする情報操作も混入した)いわばコミュニケーションであ/った。赤マントは大戦禍への予兆であり、子供たちの恐怖のサインであった。
           *          *
 ありあまる情報の飽食下にあって絶えず飢えている、という逆説を無意識にひき/【133】ずっているのが現代のメディアである。メディアが作ってしまった「酒鬼薔薇」は、/容疑者とは別に生きて消費されている。子供たちが好きな仮想現実の世界ではいま/だに生きているのである。現代の赤マントとして。


 酒鬼薔薇の事件当時の記憶はもうかなり曖昧になっているが、連日大騒ぎしていたことはうっすらと覚えている。確かに、見て来たような中年男性の目撃情報が流されていて、本当に目撃されたのか不安と恐怖が生み出し記憶を書き換えた幻影に過ぎなかったのか、それだけが妙に引っ掛かっている。逮捕は6月28日で、松尾氏は2週間前の129頁6行め~130頁「いやな渡世だなあ 六月二十七日」では、最初の段落(129頁7~9行め)に、

 近ごろは新聞の一面を読むのがつらい。憂鬱になるからだ。汚物にまみれたよう/な札束をめぐる大銀行や大証券会社のトップたちの記事か、さもなくば少年惨殺事/件の続報ばかりだ。

としていたが、1週間前の前回取り上げた「断髪から茶髪へ 七月四日」には132頁7~9行め、

‥‥。神/戸の少年惨殺事件の深刻な結末を報じる小学校前のテレビの放送記者を囲む茶髪少/年たちのVサインがうっとうしい。

とこれは日付からしても逮捕後の執筆である。このVTR、局に残っていても「少年たち」の顔は全員暈かされてしまうのだろう。
 1週間後の134頁4行め~135頁「大リーグ中継に感あり 七月十八日」はこの事件に全く触れていない。
 2週間後の136~137頁10行め「『14歳、心の風景』と『職員室』 七月二十五日」では再びこの事件をメインに扱っている。
 この後にも触れたところがあるかも知れないが、本書には(Ⅱ)409~406頁「放送人索引」しかない。それも掲載順に演出家や脚本家・キャスターなど放送関係者の人名を挙げて行っただけのもので、事件や番組の検出は出来ない。そういうものがあればもう少しこの大冊は使い勝手が良くなって、参照されることも多かったかも知れない。
 だから4週間後、139頁3行め~140頁「せつない美意識のドラマ 八月八日」の導入、139頁4~10行め、

 真夏だというのに黒一色の明治時代の第一軍装に身を固めた老人がラッパを吹い/ていた。町を流すアメ売りである。僕たち子供は、「廃兵のおじいさん」と呼んでい/た。昭和十三年ごろだからまだ日露戦争後三十五、六年しか経っていない頃合いであ/る。
 一方、太平洋戦争が終わって五十二年目だ。廃兵の姿に日露戦争のリアリティー/をもてない以上に、はるかな歳月が流れた。戦争への痛覚よりも歴史への想像力が/試される時代に入った。
           *          *


 日露戦争明治37年(1904)から明治38年(1905)に掛けてだから昭和13年(1938)頃では33~34年後だが、とにかくこのような回想をもっと読みたいのだが、それを拾うのも時間に余裕がないと無理である。いや、各回の見出しも、目次或いは索引として纏められていない。本文にしか出ていない。やはり使いづらい。――控え目に指摘するつもりだったが、実は致命的な欠陥と云ってしまって良いような気がして来た。
 赤マント流言は昭和14年(1939)2月下旬、昭和13年度の3学期だからこの回想と同じ時期である。58年前だから松尾氏より若い「友人」には通じない道理である。当時、東京の学校で、何らかの指導があって校長が一斉に朝礼で赤マントについて訓示するような事態になったことについては、2020年5月2日付(242)を挙げて置こう。しかしここでは赤マント流言を否定するのではなく、これを利用して児童たちの行動を慎ませようとしているところが注意される。実際、当初、教員がこの流言をその方向で利用しようとしたことが、こんな流言を広めてしまう要因の1つとなったらしいのである。
 奥付の上部にある著者の紹介に、まづやや大きく「松尾羊一(まつお よういち)」とあって、

本名・吉村育夫。1930年東京都(旧京橋区入船町)生まれ。
53年、早稲田大学第一文学部仏文科卒。文化放送入社。主に社会教養番組の/ディレクターとして‥‥


 京橋区入船町は現在の中央区入船1丁目の南半分と2丁目・3丁目に大体重なるようである。松尾氏の母校は鉄砲洲小学校らしい。現在は京華小学校と統合されて中央区立中央小学校(中央区湊1丁目4番1号)になっている。校舎は建て替えられたが校地は旧鉄砲洲小学校を継承している。松尾氏は早生れでなければ小学校には昭和12年(1937)入学、小学2年生の3学期に赤マント流言に遭遇したことになる。(以下続稿)
4月15日追記】先日、家人の両親から私の53歳の誕生日祝いに送られて来た荷物の包装に使っていた「日本経済新聞」2024年4月11日付朝刊を見るに、[社 会]面(12版)、15段分の8段め(以下7段分は広告)の最後、訃報が3つ並ぶ3つめに、

 松尾 羊一氏(まつお・/よういち、本名=吉村育夫/=よしむら・いくお、放送/評論家)2月22日、大腸が/んのため死去、94歳。葬儀/は近親者で行った。
 文化放送を経て放送評論/家。放送批評懇談会や放送/人の会に参加し、2015/年にギャラクシー賞志賀信/夫賞を受賞。著書に「テレ/ビは何をしてきたか」「テ/レビ遊歩道」など。

と出ているのに気が付いた。すなわち、私がこうして『テレビ遊歩道』の赤マント流言を取り上げた翌日に死去していたのである。――2024年2月22日歿で満94歳であれば昭和5年(1930)の早生れ、小学校には昭和11年(1936)入学で赤マント流言には小学3年生の3学期に遭遇していたことになる。

*1:ルビ「ようげん」。

*2:ルビ「 ひ ご 」。