瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

遠藤周作「幽霊見参記」(15)

吉行淳之介の解釈(2)
 この「幽霊見参記」の体験談については、他にも気付いたことはあるのだが、何だか続けようと云う気分にならないまま放置していた。
 この体験自体は、本当に幽霊かどうかはともかく、幻覚であっても事実あったことなのであろう。――しかしながら、遠藤氏が自身の体験のように書いている文章には往々にして嘘が多いのである。しかるに嘘が多いのに、有名な作家であるから今でも体験を述べたものとして取り上げられることがあり、そして取り上げた人はどうも、若干の疑いを抱きながらも大体はあったことと信じているらしいのである。複数の材料を突き合わせれば相互に矛盾が指摘され、話によっては半ば創作、或いは全くの創作であることが確認出来ると私は思っているのだが、そのためには素直に信じて本に書いてしまった人を(礼儀として)批判しないといけない。それに、初出誌・単行本・文庫版・アンソロジーへの再録など、細かく確認するのもなかなか大変なので、どうも滞ってしまった。
 それで、今回も、別に核心に切り込もうとする訳ではない。2014年9月19日付(04)に紹介した、吉行淳之介がこの件を書いたエッセイの異版を見付けたのでメモして置こうと思っただけである。
 2014年9月18日付「吉行淳之介『秘蔵の本』(1)」に述べた、私の参照した光文社文庫版『秘蔵の本』の元版、カワデベストセラーズ版は未見。光文社文庫版『秘蔵の本』では217頁10行め~220頁6行め「同性愛的「ユーレイ話」」と題して見えるが、吉行氏の次の本には同じ文章が36篇中5番め、19~21頁に「幽 霊」と題して見えている。
・角川文庫3715『怪談のすすめ』

・昭和五十一年六月十日初版発行・昭和五十九年十月二十日十四版発行・定価220円・198頁
 貼付した書影とはカバー表紙が異なる。ごく淡い灰色地、文字は全て横組みで、上部に菫色の雲型に明朝体横組みの標題、その下にやや大きく明朝体で著者名、中央に左右から流れて来た黄土色の煙が絡まって目の白い猫の形になったところ、他に歯が白く口の中は赤紫色。下部中央にゴシック体で「角川文庫」。
 2014年9月19日付(04)と同じ箇所を引用して確認して見よう。
 まず、前振りに当たるところ、19頁2行め〜218頁2行め、

 以前、私はC君とD君とが、あわや同性愛的関係に陥りかかったのではないか、と疑ったこと/がある。
 C君もD君も小説家で、私の友人である。
 なぜ、そういう疑いを抱いたか、といえば彼らがある宿屋の一室でユーレイを見て、とてもと/ても恐かった、という体験記をそれぞれ発表したためだ。


 異同は光文社文庫版『秘蔵の本』では「F君とG君」となっていたのが「C君とD君」になっていることで、2014年9月19日付(04)でイニシャルではなく、仮名で登場する人物を吉行氏は順に割り振ったらしいとの推測を示して置いたが、本書では1篇め、7~9頁「追いかけるUNKO」に「A君」、4篇め、17~18頁「テレパシイ」に「友人のB君」が登場するから、確かに順番に割り振って「C君とD君」にしたもののようである。
 2人の体験の箇所、19頁73行め〜20頁8行め、

 二人が一緒に旅行して、ある宿屋の離れの間に泊った。竹藪がみえて、陰気な部屋だったそう/だ。*1
 眠りかかって、なにか胸のあたりが重苦しいので、目を開くと枕もとに座っている人影がみえ/る。若い男が、うなだれて、正座している。*2
 「おまえは誰だ」
 という目で、C君が眺めると、
 「わたしは、この部屋で死んだのです」【19】
 と若い男が陰にこもった声で言い、次の瞬間、その姿が掻き消すように見えなくなった。*3
 厭な気持で、C君が眠りかかったとき、D君の叫び声が聞えた。*4
 「どうした」
 と訊ねたときには、すでにD君は寝床の上にはね起きていて、
 「出た」
 と言う。
 そして、D君が告げたのは、C君が見たのと全く同じ情景だった。二人がべつべつに見たもの/が、全く同じものだったと知って、二人は猛烈にこわくなったのだ、という。


 ルビ以外の異同は「お前は誰だ」の漢字を開いているのみ。
 吉行氏が疑いを持った理由、20頁9〜13行め*5

 さて、このことと、同性愛とが何故結びつくか、と問われると、私も明確に説明をすることが/できない。
 要するに、私の気持としては、二人の小説家が二人とも、ユーレイを見てとてもこわかった、/などと言っているのは奇怪である。信じがたい、しからばそのユーレイの正体は何だろう、とい/う具合に考えが動いてゆくわけだ。


 そして吉行氏の突飛な解釈、20頁14行め〜21頁9行め、

 C君もD君も、同性愛の嗜好*6は持っていない。しかし、いかなる人間にも、そういう傾向は潜/在している、潜在している、ということは二人とも知っている。
 二人で旅行に出る。【20】
 同じ部屋に泊る。突然、二人の中で潜在しているものが、動き出し、頭を出しかける。C君の/手が、フトンの下からそろりと伸びてD君の手を握る。そのときのC君は、いつもの自分でない/別の存在になっている気分である。D君もそれに巻きこまれかかり、手を握りかえそうとして、/不意にわれに返る。
 「出たっ」
 と叫んで、寝床の上にはね起きる。その瞬間、C君もわれに返り、同じく「出たっ」と叫んで/はね起きる。
 「おい、今夜のことは、ユーレイが出たということにしておこうぜ」
 と、二人が申し合わせるのである。


 すなわち、題と仮名を変えただけで同文なのだが、初出が示されていないので、もともとどういう素性の文章だったか分からない。(以下続稿)

*1:ルビ「たけやぶ/」。

*2:ルビ「まくら/」。

*3:ルビ「か」。

*4:ルビ「いや」。

*5:異同は光文社文庫版『秘蔵の本』は「説明する」となっていたことだが、私の入力ミスの可能性もあるので保留にして置く。

*6:ルビ「しこう」。

壺井栄『二十四の瞳』の文庫本(16)

新潮文庫1089(2)
 朝間義隆監督映画の昭和62年(1987)7月11日公開に合わせて、カバーに映画の写真を使用したものが各社から出ている。2016年6月12日付(13)フォア文庫版(第27刷)を取り上げたときに、映画関連の商品等を貼付して置いた。なお、AmazonBlu-ray 盤のカスタマーレビューは現在12件あるが、うち3件は2013年8月4日放送のテレビ朝日のTVドラマ(松下奈緒主演)のDVDに対するものなので注意が必要である*1
 当時貼付出来なかったもの若干を補って置こう。
・ちらし

 B5判でパンフレットとVHS・Blu-ray 盤のパッケージに使用されている分教場を背景にした集合写真を使用し、空に「忘れもの、見つけた。」の惹句を入れる。
・ポスター
 Amazon にはこの「愛情を、しめきりのない宿題にします。」と云う惹句のポスターしかないが、他に「とめどなく あふれる 映画です。」の惹句のポスターがあり、上記のちらしと同じ写真がメインで使用されており、さらに右上に田中裕子の顔写真、そして下部に場面の写真が3点、左は山の中を自転車で走る大石先生*2、中は教室でオルガンの周囲に子供たちが集まって大石先生が弾きながら歌う場面*3、右は砂浜で遊ぶ場面らしくフォア文庫版第27刷のカバー表紙の写真とは異なるが、同じ場面であろう。
・テレホンカード
 2012年8月21日付(03)に追加して置いた②六十五刷はこの映画公開直前の増刷で、やはり映画の写真をカバーに使用している。カバー表紙の写真はテレホンカードと同じ写真だが横長のテレホンカードと違って縦長である。中央に田中裕子(1955.4.29生)の帯が位置する。左右は子供たちの並びが収まる範囲、上下は広く、下の砂浜に明朝体横組みで「新 潮 文 庫」、上の霞んだ空に赤の明朝体で大きく標題、その下に黒の明朝体でやや大きく「壺井 栄」の著者名。
 カバー背表紙は2012年8月21日付(03)に見た②六十九刷にほぼ同じ、並べて比較していないが、異同は最下部の「240」に下線がないこと。
 カバー裏表紙も②六十九刷に同じくバーコードがなく紹介文の上下に横線がある。下(中央)の横線の下、「ISBN4-10-110201-5 C0193 ¥240E 定価240円」とあってその下、中央に葡萄マーク。
 カバー裏表紙折返しは②六十九刷に同じ、作品の2点め「母のない子と  /  子のない母と」。
 カバー表紙折返し、右 0.6cmほど、表紙の写真が入り込む。私の見た本では前列の左端で体育座りしている男児の影が入っているのみで、男子の身体はカバー表紙に収まって折れていない。しかしここで折ると、右端に立っている女児の左腕がカバー表紙に収まりきらず、背表紙に及んでしまう。しかしこちらは折れたり切れたりする訳ではない。よってカバー背表紙の左 0.2cmほどが写真の右端で、背表紙も文字は右に寄っている。
 そして 0.9cmの余白を挟んで、カラー写真(5.0×6.0cm)が3つ、縦に並ぶ。余白の下部に明朝体で「カバー袖写真 松竹 提供」とある。1つめの写真はやはり映画関連の改装である、2016年6月13日付(14)に取り上げた金の星社版『日本の文学 2』第27刷のカバー裏表紙に使用されている、両脇に緑の草が生い茂る乾いた土道の坂を藤色のスーツの大石先生の自転車が下りきったところで、次の登り坂に向けて漕ぎ始めた場面の写真(7.1×10.5cm)に似ている。異同は『日本の文学』は背後の坂の上方左側に立つ小屋の脇に、恐らく本校に通う男子児童6人が大石先生の方(こちら)を向いて立ち、うち3人は両手を口の脇に当てて何か叫んでいる様子であるのに対し、②六十五刷では坂を登り始めた辺りにこの6人が左に寄って立ち、身体は横を向けて顔だけ大石先生の方(こちら)を振り返っていると云う按配である。すなわち、②六十五刷の写真は自転車と擦れ違ったところ、『日本の文学』の写真は見たこともない洋服・自転車の女性を囃し立てているところなのである。他に異同としては小屋の前に草を食む親子の山羊がいるが、その姿勢が異なること(②六十五刷の方は小さいので頭の向きなど分かりにくい)、②六十五刷では坂のさらに上方に、こちらに下ってくる白っぽい野良着姿の人物が写っているが、『日本の文学』にはいないことである。
 2つめの写真は同じ服装の大石先生がオルガンを弾き、その周囲に子供たちが集まっている場面で、これは『日本の文学』のカバー表紙に使用されている写真と同時にほぼ写されたらしく、子供たちの手の位置も同じで、大石先生の口から覗ける前歯も同じように見える。異同は角度の違いくらいで新潮文庫の写真のカメラマンが左、そのすぐ右に『日本の文学』の写真のカメラマンが立って撮ったようである。
 3つめの写真はカバー表紙の写真と同じ服装で、立って泣きじゃくる子供たちに笑顔で優しく声を掛ける大石先生。背後には乗合バスの背面。すなわち、上級生の掘った落し穴で怪我をして岬の分教場を休んでいる大石先生を見舞おうと皆で落ち合って出発したものの、小学1年生のこととて岬からの距離をきちんと理解していなかったものだから途中で皆泣き出してしまったところに大石先生の乗ったバスが偶々通り掛かり、……と云う場面で、そしてカバー表紙はその続き、大石家で饂飩を御馳走になり、それから写真屋を呼んで浜辺に出て、岬を背景に記念写真を撮る、と云う場面なのだが、この記念写真の場面は、写真が白黒だった時代だけに、白黒映画の方が、その画面がそのまま観客にも焼き付けられる訳で、効果があるように思うのである。(以下続稿)

*1:VHS と Blu-ray がこの映画に対するもので、DVD はこの6年前のTVドラマのもの。

*2:恐らく後述する金の星社版『日本の文学 2』のカバー裏表紙の写真に同じ。

*3:これは後述する②六十五刷のカバー表紙折返し・中の写真と金の星社版『日本の文学 2』カバー表紙の写真と同じ場面だが若干違うようである。