瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

遠藤周作「幽霊見参記」(04)

 昨日の続き。しばらく敬体で書いていたのが昨日から常体に代わったのは、実はこの本の記事を準備した時期の方が、早かったからで、当初は昨日の分と今日の分で1本のつもりだったが、長過ぎるのと内容も違っているので分割した。目下、文体を改める余裕がないので、文体は変えずに上げて置く。
 吉行淳之介『秘蔵の本』光文社文庫版213〜223頁「ヘンな話」の章、217頁10行めに「同性愛的「ユーレイ話」」と題して、遠藤氏の話を紹介している。
 まず、前振りに当たるところを見て置こう。217頁11行め〜218頁2行め、

 以前、私はF君とG君とが、あわや同性愛的関係に陥りかかったのではないか、/と疑ったことがある。
 F君もG君も小説家で、私の友人である。
 なぜ、そういう疑いを抱いたか、といえば彼らがある宿屋の一室でユーレイを/見て、とてもとても恐かった、という体験記をそれぞれ発表したためだ。


 吉行氏の友人でこんなことをした2人と云えば、9月14日付(01)で見たように、「文藝春秋 漫画読本昭和32年1月号に「幽霊見参記」を発表した、遠藤周作三浦朱門しかいない(だろう)。
 遠藤周作は、66〜68頁には実名で登場している。実名にしないのは「吉行的」な“解釈”の餌食(?)にしたため遠慮(?)したのである。
 もちろん、FとGというのはイニシャルではないのだが、そう思って遡って見るに、214〜215頁に「中学生の頃」の「友人のE君」が登場する。さらに遡ると14〜16頁「A君」、16・18頁「B君」が、46頁「C君」48〜51頁「D君」が登場していた。「A君」は34〜36頁にも出て来るが別人らしい。
 「C君」は「中学四年生の頃」すなわち麻布中学4年生の昭和14年(1939)の「夏休み」のこととなっているが、2人のA君とB君・C君は既に成人して後の話のようである。
 全てこの調子でABC……と続くのかというとそうではなくて、47〜48頁「亡くなった評論家のT氏」、78〜82頁「中学のときから仲のよかったH君」とこの2人はイニシャルらしいが、85頁「大物政治家の愛妾」である「ある花柳界のA女」となるとどっちだか分からない。かと思うと、人に名前を持ち出される場面に、104頁3行め「Y(私の名)」と自分の名前をそのまま書いていない。同じ頁には「故人になった某氏」も出て来る。これ以上は止めて置くが、実名とイニシャルと単なる順番に割り振ったものでしかない場合と、その基準があるような、ないような。
 続いて、2人の体験を紹介している。218頁3行め〜219頁4行め、

 二人が一緒に旅行して、ある宿屋の離れの間に泊った。竹藪がみえて、陰気な/部屋だったそうだ。
 眠りかかって、なにか胸のあたりが重苦しいので、目を開くと枕もとに座って/いる人影がみえる。若い男が、うなだれて、正座している。
「お前は誰だ」
 という目で、F君が眺めると、
「わたしは、この部屋で死んだのです」
 と若い男が陰にこもった声で言い、次の瞬間、その姿が掻き消すように見えな/くなった。
 厭な気持で、F君が眠りかかったとき、G君の叫び声が聞えた。
「どうした」
 と訊ねたときには、すでにG君は寝床の上にはね起きていて、
「出た」
 と言う。
 そして、G君が告げたのは、F君が見たのと全く同じ情景だった。二人がべつ/べつに見たものが、全く同じものだったと知って、二人は猛烈にこわくなったの/だ、という。


 要点はそれなりに押さえているが、細部はかなり異なっている。遠藤氏が感じたのは「幻聴」と圧迫感で幽霊を見ていないのに対し、三浦氏は「幻覚」すなわち幽霊らしき若い男を見ただけなのだが、吉行氏の書きぶりだと2人が時間差で、F君→G君の順に、同じ体験をしたことになっているように読める。
 吉行氏はこの話に変な疑いを持った理由を、次のように説明する。219頁5〜9行め、

 さて、このことと、同性愛とが何故結びつくか、と問われると、私も明確に説/明することができない。
 要するに、私の気持としては、二人の小説家が二人とも、ユーレイを見てとて/もこわかった、などと言っているのは奇怪である。信じがたい、しからばその/ユーレイの正体は何だろう、という具合に考えが動いてゆくわけだ。


 その後に、吉行氏の突飛な解釈が述べられる。219頁10行め〜220頁6行め、

 F君もG君も、同性愛の嗜好*1は持っていない。しかし、いかなる人間にも、そ/ういう傾向は潜在している、潜在している、ということは二人とも知っている。
 二人で旅行に出る。
 同じ部屋に泊る。突然、二人の中で潜在しているものが、動き出し、頭を出し/かける。F君の手が、フトンの下からそろりと伸びてG君の手を握る。そのとき/のF君は、いつもの自分でない別の存在になっている気分である。G君もそれに/巻きこまれかかり、手を握りかえそうとして、不意にわれに返る。
「出たっ」
 と叫んで、寝床の上にはね起きる。その瞬間、F君もわれに返り、同じく「出/たっ」と叫んではね起きる。
「おい、今夜のことは、ユーレイが出たということにしておこうぜ」
 と、二人が申し合わせるのである。


 これすなわち、9月17日付(03)に云う「吉行的」なふざけた“解釈”であるが、私はこんな“解釈”にはあまり興味がないので、体験内容が訛化して来ていることに、興味をそそられるのである。(以下続稿)

*1:ルビ「しこう」。