瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

節電大歓迎

 今日から節電が本格化した。私の勤め先も大口需要家なので、昼間に電気ポットが使えなく(使ったらいけないことに)なったりして、他に湯を沸かす手立てがないので、不便である。それにしても、いつからガスで沸かしたらいけなくなったのか。で、オール電化は結局どうなるのか。しかし、照明が暗くなったのには助かっている。私は虹彩の色が薄いので、人より眩しさを感じやすい。だから人の半分くらいの照明で十分で、世の中を明るく明るく、という方向に進むのが正直苦痛であった。それに、昔はこんなに明るかっただろうか。
 私の最も早い時期の図書館の思い出は、幼稚園児か小学校の低学年の頃、昭和50年代の前半、昔は村役場だった建物が公民館として使われていて、そこの一角が図書室になっていた。児童室のようなものはあったのかなかったのか、とにかく私なぞは入れてもらえなくて、窓の外から眺めた記憶がある。中学生だろうか、紺の制服の女子が2人、窓際で外から差す天然光を頼りに勉強をしている――という記憶なのだが、その中学生のお姉さんがしっかりしていたように見えたのが、妙に印象に残っているのだが、しかし記憶は嘘つきだから、本当にこういう光景を見たかは分からない。とにかく影の差さないくらい隈無く照らされた図書館よりは、静かで薄暗い図書館の方が、私には好ましい。そして、かつてもう取り壊してしまった大学図書館の、迷路のような書庫で、院生になり立ての頃だ、北向きの窓際に置かれた机で、少し窓を開けて外気を入れながら、淡い光でせっせとノートを取ったことなども、思い出す――と、これも、書いていて思うに、2つ以上の図書館の記憶が混合しているようだ。それはともかく、私は少し薄暗い方が落ち着くので、コンビニには殆ど入らない。
 だから周囲には、節電節電と窮屈で、暗くて気分が滅入る、という意見もあるのだが、私は心密かに時代が私に追い付いた(?)、と快哉を叫んでいる。――それで不思議なのは、あんなに一頃省エネ省エネと騒いで、化石燃料はあと数十年で枯渇するから節約しないといけないと煽っていたのに、私より若い世代にはそういう意識が全くと言って良いくらいないらしいことだ。照明にしても空調にしても、全く節約しようという発想がない。まだ我慢出来そうなところですぐ付ける。いや、それはそれこそ個人差という奴だろうし、よく考えて見れば、私と同世代だって、そういう意識は希薄になって来ているような気がするのだが。
 電車が暑いのは確かに困る。しかし、あれは窓が開かないようにしているからだろう。特に連結部から1つめのドアまでの間に開閉可能な窓がないのは欠陥設計だろう。20年前の東急世田谷線のように、進行方向前方の窓が開く車両であれば、クーラーは全く要らない(その代わり降り込むような雨の日は蒸し風呂のようだったが)のに。私はクーラーも苦手なので、トンネルで煤が舞い込む訳でもなし、タダで入ってくる風を活かしたら良いのではないか、と常々思っていたのだが、その後私の思いとは逆の方向に向かい、在来線でも窓は殆ど開けられなくなってしまった。とにかく、風が全く通らないスペースがある以上、クーラーに頼らざるを得ない。車内の一部だけクーラー、という訳にはいかないから、全部を閉め切ってクーラーで冷やすしかない。そのせいか、たまに冬など混雑で上着を脱ぐ余裕もない車内で、物凄く蒸して皆が汗をだらだら掻くような按配であっても、誰も窓を開けて換気をしようと気の利く人がいなくなった。皆空調に頼り切っている。そして夏はクーラーをがんがん効かせて、真夏でもネクタイを締めてスーツをびちっと着込んで、という、あれはやはり奇妙だと思う。日本人はそもそもこんな異常に暑くなる以前から喉元を締め付けるような服装はしなかったのだし、昔の映画を観ても、そんなきちっとした格好はしていない。
 夏の田舎の在来線など、特に冷えすぎるので窓を開けたいのだが、どうも他人はもうクーラーに馴らされているのか、折角冷えた車内に外の熱気を取り入れようという私を咎めるように見るので、確かに折角冷やしているのに水を差す、というか暖気を差すのは変は変だが、異常なのは私ではなく冷やし方の方である。そして汗かきの私は、夏だから風に当たれば自然に乾くはずの汗に濡れた服を一瞬にして冷え切らせ、さらに身体の芯まで冷え切らせながら、正直クーラー不要なくらい閑散とした車内で、他に帰宅の手段もないからひたすら堪えているしかなかった。この異常な「冷やし」が多少なりとも改善(と敢えて言う)されるのなら、こんな喜ばしいことはない。窓の開かない電車みたいに今時どこもクーラーがないとやってられないだろう、という意見もあるだろう。しかし、それは例えば、電車の方を改良すりゃあ、良いことだ。人間が合わせて着込んだりするのが馬鹿げている。どこに行っても寒いので、私は10年以上夏でも長袖を着て(皮膚癌を気にしている訳ではない)、股引を穿いている。動くと暑いしそもそも汗かきだから本当はそんな格好をしたくはないのだが、どこも冷やし方が尋常でなかったから着込まざるを得なかった。しかし、これを機にこの冷やしをやめちまって、みんな40年前の夏みたいな格好をして、電車の窓は開け放して、車内は薄暗くて構わない。その方が涼しく感じる。
 別に、賛同してもらえなくても良い。こうなる前から昨今の方向性に疑問と苦痛を感じてきていた者がいるのだ、ということを、ここに訴えて置きたいのである。