瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

再びコメント欄について(5)

 話が脇に逸れたついでに書いて置くと、――返事が来なかった、ということでは、このときも編集担当から返事が来ませんでした。査読結果を送ってしまってから、「掲載可」と返したのなら別に気にする必要もなかったのですが、「掲載不可」として返したので、その後の経過は非常に気に懸かっていました。或いは揉めたりしていないか、と心配したのです。
 それでも「落とせ」と返したのは、もちろん、載せない方が本人のためだ、という気持ちからですが、納得出来ないとか言って来たり、或いは、どうしても点数稼ぎのために今年度中に載せる必要があるのだとか、いろいろな事情はあります。そういうので通すのも宜しくないと思いますが、大人の事情のようなものもある訳です。
 そこで、余計な気遣いでしたが、もし必要とあらば、投稿者に直接説明しても良い、と編集担当に申し出たのですが、返事がありませんでした。あまり口出しするのも良くないかと思って放って置いたのですが、そのまま、雑誌そのものがなかなか刊行されません。やはり何かあったのではないか、と思って、編集担当者に再び連絡してみると、今度は、――待たせているが×月に出る、というような返事があったように思います。
 そして、ようやく送られてきた雑誌を見るに、件の論文が掲載されていて、何の断りもなしに、私が附した資料を全面的に取り入れた改稿がなされていたのです。
 確信犯ですね。学界の《言った者勝ち》で《後出しは負け》の風土を利用して、とにかく出してしまえば後から私が文句を言ってきても黙殺出来ると踏んだのでしょう。私は査読の添付資料に、この論文が全く駄目で、どこにも取り柄がない(ように私には読める)ことを完璧に論証していました。従って、何故だか知らないが(だって説明が全くないから)こんな論文でも落としたくなかったらしい編集サイドには、私を説得出来る可能性が全くないことは分かっていたはずです。それにしても、駄目な論文を駄目と言って何がいけないのか。しかも、私は、専門外の人間が読んでも(編集担当者が駄目な理由を分かっていないと執筆者を説得できないと思ったので)分かるような客観的な資料を附して論証した上で言ったのです。それがあろうことか、その客観的な資料を剽窃させて書き直させて発表させるとは。
 編集担当者が勝手にやったのか、それとも会長などとも合議の上でやったのか、一切の説明がないのでまるで分かりません。それならそれでとにかく、私の方の言い分だけでも公開して置きたいのですが、それには不快な思いを追体験して経過を細かく辿り直す必要があります。今の私には耐えられそうにありません。ひょんなことから思い出して、そうすると次々と当時のことが思い出されます。あっちは完全にこっちの言い分を周囲に出さずに黙殺にかかったので、私は手持ちの資料を提示する機会すら与えられず、それが出来れば少しは私の言い分に同調する者もいたろうと思うのですが、全くそれもならず、孤立無援であっさり敗れ去りました。そのことも含めて、いづれきちんと整理する機会を持ちたいと思いますが、それはしばらく先のこととして、当分はこの不快な話題からは離れたいと思っています。