瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(121)

 昨日の続きで『都市伝説王』について。
 2月19日付(119)に述べた理由でしばらく「赤いマント」は休む予定だったのですけれども、昨日の記事で、肝心の「赤マント」に関する箇所の検討をする余力がなくなってしまい(『犯罪百話』の引用もあり長文にもなったため)やはりここまでは済ませて置こうと、この下旬もしばらく続けることにしました。切りの良いところで8日間休んで、3月上旬に繋げるつもりです。或いは18日休んで中旬まで空けるかも知れません。
 「一九三六(昭和十一)年から一九三七(昭和十二)年にかけての話」というのは「参考文献」にある「『現代民話考〈7〉学校・笑いと怪談・学童疎開松谷みよ子筑摩書房)」に載る、2013年10月24日付(03)に引いた北川氏の話に拠るものでしょう。縷々述べてきたように東京の赤マント騒ぎは昭和11年(1936)のことではないので、或いは昭和11年(1936)の阿部定事件二・二六事件などの残像の反映もあったかも知れませんが、あまり関連を言わない方が良いでしょう。「当時の不安な世相の反映かと思われる」というのは、2013年11月30日付(40)等で見たようにその当時から言われていたことです。1月29日付(99)に述べたように「共産党」に関連付けることも当時からです。
 短い中に織込まれた「片端から」や「死体の山」等の一寸大袈裟な表現が気になりますが、主な内容も「女学生」云々は別としてやはり北川氏の話に拠っています。但し、同じ人の話なのに勝手に「やがてこの話に尾ヒレがついて広まっていく」と時間差を設定しています。
 ところで「マントの怪人は‥‥女性ともいわれ」というのは2013年10月26日付(05)に引いた北杜夫『楡家の人びと』でしょうか、但しこれは登場人物の「作り話」ということになっています。尤も、必ずしも「男性」だとばかり言われている訳でもないのですけれども。(以下続稿)

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 2月12日付(112)に、西之島の噴火活動をネットでチェックしている旨を書き添えましたが、PASCOのHPの「2013年11月 西之島 噴火活動モニタリング」に今日アップされた2月18日撮影の衛星画像によると、かつての湾の名残の池は溶岩流により埋め立てられ、そして(私だけが勝手に西之島富士と命名した)火砕丘に最も近かった東南東の海岸は、湾口部が閉塞されて塩水の池になっているようです。これにて浸食に弱い火砕丘の周囲がしっかり溶岩に鎧われることになった訳ですが、旧島の台地状になっているところを乗り越えることはないだろうと思うものの、昭和48年(1973)以降の活動で形成された新島の噴出物が浸食・堆積した平坦な部分が溶岩流に覆われる可能性が出て来たようです。鳥の営巣地にもなっているようですので、鳥好きとしては少々心配なところです。どうしようもないのですけれども。