瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中島京子『小さいおうち』(31)

Wikipediaの説明について(1)
 私の問題にしたい箇所は、「登場人物」についてはほぼ2013年10月25日に立項された当時の、「あらすじ」については2014年3月15日に加筆された当時のままで、その後殆ど修正されていない。特に、主要登場人物を並べて紹介したものは他にあるのかないのか、あったとしても検索してWikipediaよりも先に上がってくることはなかろう(当ブログは当然のことながら全然出て来ない)から、一応問題点を挙げて注意を促して置くことも意味のないことではなかろうと思うのである。
 まず最初の概要を記したところ、

元女中のタキが、自身の回想録を元に、かつて奉公していた「赤い三角屋根の小さいおうち」に住んでいた平井家のことを顧みながら、ある「密やかな恋愛」について回顧する物語。昭和初期から次第に戦況が悪化していく中、東京の中流家庭の生活が描かれる。


 「自身の回想録を元に」は誤りである――「回想録」そのものなのだから。やはりいきなり何の断りもなく始まって、しかも6月27日付(24)に指摘したように内容が偏っているから、こんな風に取ってしまったのだろうか。その次は「昭和10年代の、東京の中流家庭の生活」という限定で良いかと思う。それからやはり、最終章の内容についても触れて置くべきであろう。
 「あらすじ」の中では、

昭和11年正月、玩具会社の若手デザイナー板倉正治が年始の挨拶に訪れる。いくつかの出来事を経て、板倉と時子は心を通わせていく。板倉には、会社の活動を有利にするための縁談が薦められ、時子がそれを取りまとめることとなった。‥‥

とあるのだが、前回触れたように板倉が玩具会社に就職したのが昭和12年(1937)なのだし、最初の出会いということでは「昭和12年夏、玩具会社社長の鎌倉の別荘で、平井一家は採用されたばかりの若手デザイナー板倉正治に引き合わされる」とすべきだろう。板倉が初めて平井家に年始の挨拶に来るのは第三章2、昭和13年(1938)1月3日である。
 それから、次の箇所が気になる。

昭和16年12月、ついに日米開戦。しかしやがて戦局は悪化し、昭和19年には徴兵検査で丙種だった板倉にも召集令状が届く。板倉のもとに行こうとする時子をタキはなだめ、代わりに板倉を平井邸に呼ぶよう手紙を書かせ、それを預かった。タキは回想録に、板倉が訪問している間、屋外で作業をしていたと記す。
その後、タキは女中を辞して帰郷する。平井夫妻は、空襲で死亡し、恭一の行方は分からなかった。回想録はタキの死去により、絶筆となる。


 板倉に召集令状が届いて応召したのは、第七章1によると昭和「十八年の秋」で、昭和19年(1944)はタキが帰郷した年である。それから郷里の山形で疎開児童の世話をしていたこと、昭和20年(1945)3月に疎開児童の帰京に付き添って上京したことも、書くべきではないか。
 それから「絶筆」には「中絶」の意味もあるようだが、普通は「生前最後に書いたもの」という意味だろう。「未完に終わる」とした方が良いと思うし、続きが書けなくなった理由は、大きく見れば「死去」のため、と云えなくもなかろうが、ノート(回想録)を紛失してしまった(しまった場所を思い出せなくなった)ためで、この説明ではズレていると思う。
 回想録の内容に続いて、最終章の内容に及ぶ。

回想録と未開封の手紙を遺された健史は、回想録に登場する人物の消息を追う。板倉は、復員した後、カルト漫画家となり生涯独身を貫いた。板倉の作品の一つに赤い屋根の家をモチーフとしたものがあり、そこには二人の女性が描かれていた。恭一は疎開先の北陸地方でそのまま親族に引き取られて生活を送っていた。健史は恭一の許可を得て手紙を開封するが、‥‥


 回想録の説明の中に書き込まれている「平井夫妻は、空襲で死亡し、恭一の行方は分からなかった。」の一文は、タキも知っていたことではあるけれども回想記には書かれず、健史の追跡によって明らかにされることなのだから、こちらに移すべきである。
 健史については「登場人物」に説明があるが「あらすじ」には何の説明もないから、ここに「親族の」くらいの説明があるべきだろう、もっと詳しくても良いが。
 板倉の作品については「『小さいおうち』と題する、赤い屋根の家をモチーフとした未発表の紙芝居があり」とすべきだろう。尤も、題名は仮題かも知れないけれども。
 恭一が「北陸地方」に落ち着くことになったのは、空襲で焼け出された後、母・時子の両親が疎開していたのを頼ったからである。(以下続稿)