瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

日本の民話55『越中の民話』第二集(4)

 一昨日からの続きで、最後の4章めを見て置こう。
 213頁(頁付なし)扉「九十歳の老媼七話/  ――話手 小矢部市埴生 上田はる(明治十七年生)」。
【80】嫁さになりそこなった蛇娘(215~218頁)挿絵215頁左上
【81】鴨川へ流れていった桃太郎(219~221頁)
【82】真似しぞこなった欲張り婆さま(222~223頁)
【83】おりん・こりんのものがたり(224~227頁)挿絵224頁左上
【84】愚者のひとつ覚え*1(228~229頁)
【85】欲張って損した爺と婆(230~231頁)
【86】むじながくれた大判・小判(232~233頁)挿絵232頁上
 さて、以上「はしがき」に説明されていたように全体を「山里・海辺・町村の三部に区分し」更に「笑いの花束」と題する「笑い話」を「三群」、そして最後に明治17年(1884)生で昭和49年(1974)に満90歳の老婆の話を添える構成になっている。こうして細かく確認して見ると「はしがき」に「私ひとりで県下を採訪し」とあって大変な作業量であったように感じていたのが、実はそれほど多くの人に話を聞いている訳ではないことが分かる。50音順にして示そう。仮に附した番号を地域ごとに山里海辺町村と色分けして見た。
石崎しげ(西礪波郡福光町)【11】【18】【38④】【45】【78①】【78②】6話
石崎ユキ(西礪波郡福光町)【22④】1話
石崎与作(西礪波郡福光町)【19】【40】【42】【54】【55】【78⑦】【78⑧】7話
井田幸二郎氷見市角間)【1】【12】2話
今井博婦負郡山田村)【44】1話
上田はる小矢部市埴生)【80】【81】【82】【83】【84】【85】【86】7話
大井四郎下新川郡朝日町)【21】【43】【46】【47】【57】【66】【67】【78③】【78④】【78⑤】10話
奥田新作下新川郡入善町【3】【9】【22③】【29】【48】【51】6話
佐伯安一(礪波市久泉)【68】【69】【70】【72】【73】【74】【75】7話
高野ふさ氷見市大境)【38②】【38③】2話
高橋源重富山市和合町)【2】【4】【22②】【22⑤】【52】【53】【59】【60】【61】【62】【63】【64】【65】【71】【76】15話
成瀬岩松・初枝婦負郡八尾町)【6】【7】【13】【15】【16】【17】【20】【32】【41】9話
野竹辰次郎高岡市戸出)【10】【78⑥】2話
広田寿三郎魚津市本江)【14】【26】【27】【38①】【49】【50】【56】【58】【77】9話
前田宅次郎(東礪波郡城端町【5】1話
松田栄松(東礪波郡井波町院瀬見)【38⑤】1話
余川久太郎氷見市南大町【8】【22①】【24】【25】【28】【30】【31】【33】【34】【35】【36】【37】12話
 『第一集』と共通するのは石崎しげ1人であるが『第一集』で「石崎しげ(故人)」とあった。石崎直義の母であろうか。福光町の石崎氏3名(14話)は一族であろうか。それから『第一集』の共編者のうち佐伯安一が7話を提供しているが、『第一集』の話の殆どを提供していた伊藤曙覧は関与していない。そのためか射水郡の話が全くない。11月23日付(2)に見た県地図では県内各地からバランス良く採られているような印象であったが、話手の住所と地図の地名が合致しているのは[富山][魚津][入善][朝日][八尾][山田][福光][小矢部][氷見]、話の舞台として(大体)合っているのは[宇奈月][城端]、これは良いとして、話手の住所でもなければ話の舞台でもない[立山][大山][井波]は粉飾気味と云えようか。それから[黒部]に配されている「魔神と千本槍」の舞台は「白萩村」すなわち現在の中新川郡上市町である(話者は下新川郡入善町)。その[上市]には「力持ちの六兵衛」とあるが、六兵衛は小川寺村(現・魚津市)の人で、話の舞台は、下新川郡宇奈月町(現・黒部市)の愛本橋である。間違って取り違えたのではないか。
 五箇山は「山里のわらべ唄」に採られているのみで、地図では無視されている。
 石崎氏が富山県師範学校卒業の小学校教員、郷土史家であった関係からか、ネット検索に頼った不十分な調査であるが、本書の話者にはその人脈に連なる人が目立つようで、5人から39話を得ている。
 広田寿三郎は魚津市立大町小学校教員、魚津市史編纂室に勤めていた魚津市郷土史家。
 奥田新作(1906~?)は入善町史編さん委員で、地理・農政史・民俗史を担当、6名からなる調査委員会小委員会メンバーでもあった(「広報にゅうぜん」No.89(町史編さん事業特集)・昭和39年5月30日発行・6頁)。
 高橋源重(1895~?)もやはり教員で、遼東半島の瓦房店小学校に着任、昭和初年の南満洲教育会(旅順)の機関誌「南満教育」に何号か寄稿している。さらに昭和10年代には公主嶺小学校長となったようだ。昭和50年(1975)に『懐古不老―わが半生をつづる』(177頁)を、昭和52年(1977)12月には『和合随想録』(245頁)をそれぞれ自刊。後者の標題「和合」は本書に住所として示されている和合町に拠るものだろう。但し和合町は昭和29年(1954)に婦負郡四方町・倉垣村・八幡村が合併して成立、昭和35年(1960)に富山市に併合され、現在、富山市立和合中学校などに名前を止めている程度で「富山市和合町」なる場所は過去にも存在しなかったようだ。但し越中鉄道(戦中に富山地方鉄道射水線となって昭和55年廃線)の駅で、昭和4年(1929)7月9日から昭和6年6月4日までの短期間開業していた和合ノ浦(わごのうら)駅が四方駅と打出駅の間の海縁にあったことからして、町名のみに短期間使用されただけの地名ではないようだ。
 成瀬岩松は日露戦争に出征した世代で、衛生兵だった紀野一義(1922.8.9~2013.12.28)の父(1945.8.6歿)に命を救われたようだ。成瀬初枝は妻だと思われる。「はしがき」の謝辞の中に見える成瀬昌示(1923~2004.5)は八尾町出身で長年教職にあった郷土史家であるが、息子(もしくは孫)かも知れない*2。(以下続稿)

*1:ルビ「 だ ら 」。

*2:2022年1月18日追記2022年1月18日付「成瀬昌示 編『風の盆おわら案内記』(7)」に引いた紀野一義の随筆「風の盆と私」に拠れば、成瀬岩松は成瀬昌示の祖父。