瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森類『鴎外の子供たち』(4)

 昨日の続き。
・山﨑國紀『鴎外の三男坊 森 類の生涯』(3)
 本当なら頭から順にメモを取りながら読むところなのだけれども、なかなかその余裕がない。だから、風呂上りの湯冷ましなどに読んで、粗方読み終えてしまった。細かいところでいろいろ気になったところもあるが、きちんと詰めていない。
 1つ気になったのは山﨑氏は悪筆らしいと云うことである。そして恐らく内容についての知識のない入力者が打ち込んで、編集者と本人が校正したのであろうが、以下のような誤りがある。
・〈第六章〉74頁16行め「否奴」。もちろん姉の「杏奴」のことで「杏」と云う字が「否」に見えてそれをそのまま打ち込み、編集者と本人もまさかこんなところで間違ったりしないだろうと思って見落としたのであろう*1
・〈第九章〉123頁6~7行め「‥‥。類が、於菟に「小倉日記」/の写しを預け、岩波書店に行ってもらい、その結果を聞きに行った翌日、つまり七月八日、富樫正禅/に手紙を出している。」とあるのだが、直前に読んだ箇所と齟齬するように思ったので遡って見ると、118頁3行め~120頁10行め「2 [小倉日記」の発見」の節に、120頁2~7行め、類の昭和25年(1950)の日記を引用して、

‥‥。七月七日「妻とりよとを連れ梅ヶ丘の杏奴姉さんの家に行く。桃ちゃん鷗/ちゃんにも遇ふ。帰りに豪徳寺駅下の『希望』と言ふ喫茶店に案内して貰ふ。父の日記(小倉日記)/未発表のものが出た話をする」。「小倉日記」について相談された杏奴は、やはり『鴎外全集』の出て/いる岩波書店を指示し、兄の於菟を通せということになったのではないか。もしそうであれば当然の/選択であったと思うが、類にとっては気の重い話であったに違いない。類はこの「小倉日記」発表に/備え、筆写を妻美穂に始めさせている。七月二十六日「妻父の『小倉日記』を写し始める」。‥‥

とあって、7月8日ではまだ「写し」を始めていないのである。
 妻は(安宅)美穂(1917.9.8~1976.1.2)りよ(1946.10.2生)は三女。また(小倉日記)の注記は「未発表のもの」の後に附すべきだろう。
 そして120頁11行め~123頁2行め「3 於菟への不満」の節に、120頁12行め~121頁3行め、

 そして重要なのは十一月七日の日記である。「午後三時東邦女子医専で於菟兄さんに会ふ。『小倉日/記』につき岩波書店の意向を打診して来てあげると言い乍ら、『日記』の写しを渡してしまひ、団子/坂建築費及び資本金の不足額前借については金高を言はずに帰つて来たと言ふ。美穂子の病後を押し/ての『小倉日記』写しは全く無駄となる。不快極まる先手なり」。すでに台湾から引き揚げ、小林町/に住み、東邦女子医専に勤めていた於菟に対し、やはり危惧した通りになったと思ったようである。【120】その翌日、十一月八日「妻と岩波書店を訪問、取締役編集部長吉野源三郎氏、小林勇氏に会ふ。『小/倉日記』につき建築費、資本金不足額の事。昼食を饗せられる。沢柳大五郎氏に遇ふ」。早速類は岩/波書店に駆けつけている。‥‥

とあって『小倉日記』の写しを岩波書店に異母兄の於菟が持って行き、ついでに類が団子坂で開業する準備を進めていた書店(千朶書房)の開業準備資金不足額の前借について話してもらうことも頼んであったのだが、11月7日に於菟の職場に聞きに行くと、前借について具体的な話を全くせずに、写しを渡して帰って来た、と言うのである。
 すなわちここは「七月」ではなく「十一月」でないとおかしいので、これも恐らく山﨑氏が悪筆のため「±」が連綿して「七」のように見えてそのまま打ち込んでしまったらしく思われるのである。(以下続稿)

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 一昨日書き始めた件について、昨日続きを書くのはまだ差障りがあるので止めたと書いたが、初め書けそうだと思ったから始めたので、風呂に入ってあれやこれや考えていると書けそうな気がして来た。まだ最後まで行かないが、しばらく続けて見よう。

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 しかし、先輩の方はそう思っていなかった。
 どうも、先輩の眼に私は、とにかく真面目で、人と上手く話を合わせることが出来ないような、一種の社会生活不適格者のように見えていたらしい。そして才能は認めていたから、この危なっかしい後輩を、何とか上手く研究者へと育てていかなければ、と思ったらしい。
 しかし、もちろんその気味がないとは言わないが、私はそこまで話の通じない人間ではない。かつて長期休暇にたまに鈍行列車で旅していた折など、向いに乗り合わせたおばさんと長話をしたものである。そんなに取っ付き易くもないが、別に誰も彼も近寄らせないと云った風ではなかったつもりである。
 では、その先輩が勝手に勘違いしたのかと云うとそういう訳でもない。研究に関してはとにかくその主題について出来る限り正しい結論に至ることが目的なのだから、大学院の演習で、先輩たちの発表でも間違っていると思ったところには遠慮なく突っ込んだ。
 当ブログでやっていることも同じなのだけれども、私は妙なノイズが混ざること、それが残ったままになることが嫌なのである。だから、詰まらぬ間違いには少しでも早く退場願いたいのである。それは所謂“権威”と呼ばれているような人の唱えた、定説と云われているような説でも同じである。いけないと分かったら一刻も早く相手にしなくとも良い状態に持って行きたい。そうでないと私たちはいつまでも妙な回り道を強いられることになる*2
 それに、別に先輩たちの人格を攻撃したいのではない。より良い結論に達したいだけなのだ。いや、調べや考えの甘い先輩を軽んずる気持が全くなかったとは云わない。けれどもそれよりも、私は当時幸いにして、研究に宛てられる時間が他の誰よりも多かったから、他の人の分まで自分が調べてやろうと思っていたのである。
 しかしそれは研究だから当然そうであるべきだと思ってそうしていただけで、そうでなければ私は随分いい加減な人間なのである。しかし先輩には当然のことながら私のそういう面が見えていない。そして私の鋭さと、遠慮のなさを表裏一体のものと見て、とにかく研究以外のことには余り関わらせずに、出来るだけ研究に没頭出来るような環境に置いてやりたい、と、一種保護者のような心境で、案じてくれたらしいのである。
 だから私が研究会の知人の紹介で高校非常勤講師を始め、最初の頃に勤めていた商業科や男子高は酷いものだったが、その次に入った女子高で、私が如何にも楽しそうにしていたのが、正直意外に思われたらしいのである。(以下続稿)

*1:3月8日追記】293~307頁「森類略年譜」の295頁「 大 五/一九一六」年条に「・四月次女否奴小学校に入る。」とある。

*2:それでも気にせずに、思い付きを述べ続けるような人が少なくないのだけれども。