瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森類『鴎外の子供たち』(5)

・山﨑國紀『鴎外の三男坊 森 類の生涯』(4)
 昨日、〈第九章〉の123頁3行め~125頁(5行め)「4 絵画から小説執筆へ――その苦闘」の節、123頁6~8行めに「‥‥。類が、於菟に「小倉日記」/の写しを預け、岩波書店に行ってもらい、その結果を聞きに行った翌日、つまり七月八日、富樫正禅/に手紙を出している。」とあるのを、異母兄於菟に『小倉日記』について岩波書店と交渉してもらうつもりが、於菟は話を詰めずに『小倉日記』の写しだけ渡して帰って来てしまった、という結果を聞いたのが類の日記の11月7日条に見えているので、ここに「七月」と云うのは「十一月」の誤読で、「±」が連綿して「七」のように見えたのではないか、との見当を示して置いた。
 その一方で「富樫正禅」について検索してみるに、「文京区立森鴎外記念館 新収資料展」2015年1月29日[木]―4月19日[日]のチラシ等がヒットした。この展示は前期後期に分かれていて、前期は「PART1 新収蔵品に見る鴎外の横顔」1月29日[木]―3月9日[月]、そして後期が「PART2 森類の生涯――ボンチコから作家へ」3月11日[水]―4月19日[日]なのである。そのチラシの表(と思われるがPDFで見ただけなので断言は出来ない)の大半は「上|森類(千朶書房店内にて)」とのキャプションのある写真で、書棚――その上の壁に「實篤書」の「千朶書房」の額が掛かる――の前にセーターを着た類が閉じた本を手に立っているのだが、その左に丸ゴシック体白抜き縦組みで、

私は何か一つよい文章を書きたいと思って、色々書いて居ります。
画家が一個の果実をゑがく事が大事業である如く、
短篇一つ書く事もこれまた大事業です。
(森類筆富樫正禅宛書簡 昭和25年7月8日付より)

とある。この書簡は、山﨑氏の本の問題にした箇所に続いて、123頁9行め~124頁15行めに前後1行分空けて1字下げで引用されている。引用の冒頭部(123頁9~10行め)に、

  (前略)私は何か一つよい文章を書きたいと思って、色々書いて居ります。画家が一個の果実を/ ゑがく事が大事業である如く、短篇一つ書く事もこれまた大事業です。

と同文の段落が見えている。
 ここで気になったのは、文京区立森鴎外記念館のチラシに「7月8日付」とあることで、別にヒットしたこの展示の目録PDF「文京区立森鴎外記念館新収蔵品展Part2森類の生涯―ボンチコから作家へ」」にも、12点めに「  書簡  |「類筆富樫正禅宛」昭和25年7月8日付」と見えている。書簡の日付が「七月八日」で間違いないとすると、これを於菟との一件と絡めたのは山﨑氏の原稿が悪筆だった故に、編集段階に於いて「十一」すなわち「±」を「七」と誤読・誤入力したのではなくて、山﨑氏本人が、自身の悪筆のために於菟との一件が「十一月」のことだったのに「±」を「七」と読み間違えて、「七月」の富樫正禅宛書簡と絡めて記述してしまった、と云うことになりそうである。
 確かに、昭和25年(1950)11月8日には、妻美穂を連れて岩波書店に乗り込んでいるのだから、富樫正禅宛書簡の引用の末尾の段落、124頁14~15行めに、

 こんな不景気な手紙景気よけにもならず、面白くも悲しくもないものですが、折角書いたので御/ 無沙汰のお詫びまでに差出します。(略)

等と云った心境ではなかったのではないか。富樫正禅宛書簡はやはり「7月8日付」に違いないと思われる。
 なお、富樫正禅については国立国会図書館サーチにて歌集『艸庵雑詠』がヒットするのみ、この歌集は平成7年(1995)1月に自刊しており出版地の新潟県南魚沼郡六日町(現・南魚沼市)が刊行当時の住所であろう。(以下続稿)