・山中恒『戦争の中の子どもたち』(2)
前回、本書の赤マントに関する記述が延吉実『司馬遼太郎とその時代 戦後篇』に引用されているのを見た。そのついでに、2013年12月30日付(70)に若干の補足訂正を加えて置くこととしたい。
その前にまづ、2013年12月30日付(70)に貼付出来なかった書影を示して置こう。
「図説」戦争の中の子どもたち―昭和少国民文庫コレクション (歴史博物館シリーズ)
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平塚市へ転居したのは一九三九年の三月であった。転居の理由は、男手の無い家族にとって、何か/と労働力を必要とする雪国の北海道よりも、温暖な湘南の小都市の方が暮し易いだろうという判断も/あったが、何よりも北京の父からの郵便物を一日でも早く受け取れるという単純な地理的条件を満す/だけの理由による転居であった。だから、土地柄などについては殆ど調べもしなかった。と言っても/盲滅法に選んだのではなく、ぼくにとって父方の従兄がいたことが唯一の手掛りであった。
転校したのは、平塚市平塚第二尋常小学校(現・平塚市港小学校)で、須賀という所にあった。実際/に登校して授業を受けるようになったのは四月で、二年男子白組へ編入された。小樽の稲穂小学校と/は違い、全校男女別の学級編成で、それぞれ四〇名見当の男女二組づつ一学年四学級であった。
『戦争の中の子どもたち』では分からなかったが、山中氏が登校し始めたのは昭和14年(1939)4月、新年度からだから、前回推定した時期よりも後、2年生になってから赤マントの噂を耳にしたことになろう。そうすると、或いはもはや流言ではなく、幾つかの学校で指摘出来るらしい、流行後もそのまま便所に居付いてしまった赤マントだったのかも知れない。
須賀という土地については86頁2~13行め、
そのころ、須賀という町は、一般には漁師町といわれており、さびれつつあったが、馬入川(相模/川)口には須賀港があった。さびれた原因は、一九二三年の関東大震災によって、河床が極端に上昇/し、港としての機能が大幅に低下させられてしまったからである。それ以前の馬入川の水量は多く、/須賀港は単に漁港としてばかりではなく、上流の神奈川県中部北部、高座郡、愛甲郡、津久井郡等の/木材を始め、農産物の集散運搬港として、また横浜港への中継港としても、相模湾一帯の中心的役割/を果していた。現在の相模原市の古い写真を見ると、就航する須賀の帆掛船が写っている。そうした/こともあり、ぼくらが転居したころは、まだ地引網漁の収穫もあったし、網元や海産物問屋もそれら/しい構えを張っていた。庭に漁網をテントのように張って干した家や、魚を入れる屋号入りの木箱を/山のように積み上げてある家も珍しくなかった。平塚は東海道線で東京から一時間半ばかりであった/が、苗字より屋号の方が通用する極めて排他的な、地方色の強い漁師町であった。だから、ぼくのよ/うに、町はずれの新開地に越して来たものが余所者としての扱いを受けるのが当然のような土地柄で/あった。
と説明されている。かつて須賀が栄えたについて私に思い合わされるのは、2017年12月14日付「手で書かずに変換する(4)」に述べた、横浜市立中央図書館等にて昔話の文献を渉猟していた頃に閲覧した小島瓔礼『神奈川県昔話集』全2冊や、これを改編した全国昔話資料集成35『武相昔話集』(岩崎美術社)に載っていた「須賀の素っ頓狂」と云う、頓智話と愚か村話の混ざったような笑話である。須賀を中心とする神奈川縣中郡須馬町は昭和4年(1929)に平塚町に併合され、昭和7年(1932)市制施行の平塚市の一部となっていたが、当時は今のように平塚と須賀の市街地が連続しておらず、いづれそこを埋めることになる「町はづれの新開地」が存在した。そして港小学校も、その新開地に校地が造成されたのであった。(以下続稿)