瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

和楽路屋『東京区分地図帖コンパクト版』(2)

 昨日の続き。
冨田均『住所と日付のある東京風景』(2)
 この地図のことは28篇め、235~242頁「地図と高速道路と猫」にも、236頁16行め~237頁11行め、

 和楽路屋発行の『東京都区分地図帖コンパクト版』をとり出す。これが今の東京を歩くには絶/好の地図なのだ。オリンピック直前の東京地図で、時代は高度経済成長のまっただ中なのだが、/【236】新住居表示法という悪法が施行される以前の東京であるため、地図を開くと思いのほか静けさが/残っている。
 千代田区を開くと、元千代田町、宝田町、祝田町などの町名がある。麻布界隈を見れば、龍土/町、材木町、盛岡町、富士見町、笄町がある。本郷界隈には菊坂町、真砂町、本富士町、竜岡町、*1/丸山福山町がある。上野を開くと、池之端仲町、数寄屋町、広小路町、花園町、池之端七軒町の*2/名が見える。浅草には猿若町、聖天町、馬道、象潟、それに江戸町、揚屋町、京町もある。東京*3/人は長くこれらの町名に馴染んでいたから、何ら不自由を感じなかった。かえって六本木七丁目*4/や南麻布四丁目、上野一丁目や浅草三丁目、あるいは千束四丁目と聞かされて、まごつき出した。
 私の母が生れたのは麻布笄町だが、これが突然、西麻布二丁目になってしまった。こんなのが/東京じゅうで起ったのだ。私のように新住居表示法の施行以前に「東京全図」を頭にたたき込ん/だ者には、たいへんつらいことだった。‥‥


 私は住居表示実施後に育っているせいもあって、古い町名に憧れのような気持ちはあっても今更叩き込むことも出来ない。都内に住んで冨田氏ほどでないにしても日々、通勤や図書館通いの序でに『東京都区分地図帖コンパクト版』で歩き回ったらば、可能かも知れないけれども、そんな訳にも行かぬので、たまに古い地図を眺めて旧町名に、全くの一時的に思いを馳せるばかりなのである。
 父の持っていた東京の区分地図は、川崎と横浜の区分地図に東京23区を抱き合わせた昭和42年(1967)の昭文社版が最古で、住居表示実施地域と未実施地域とが入り交じっていた。新しい版もあったがこちらは全て住居表示実施済みである。私は中学・高校時代にこれらの地図をたまに眺めていたのだが、東京に出る用事もなかったし、東京を舞台とする文学作品も読まなかったので、住居表示を好ましくないもののように感じながら、特にどうとも思わずに過ごしていた。
 中学時代の私が住居表示について考えさせられた体験は1度だけ、当時私は2018年11月12日付「美術の思ひ出(1)」に述べたように庚申塔を調査していて、日曜ごとに自転車で出掛けては、国土地理院の 1:25000地形図を見て古道らしき道を辿り、道端から撤去されて神社や寺に移されていることも多いので鳥居マークや卍を辿って日がな一日を暮らしていたのだが、――切っ掛けはすっかり忘れてしまったが、横浜市庚申塔を悉皆調査している人を紹介されて、電話を掛けてみたのである。私にどんなことをしているのか、と聞くので、銘文を読んで写真を撮り、所在地を地図に書き入れている、と答えると、もちろんそんなことはとっくに済ませているらしいその人は、全く親切でなく初心の中学生を励ます様子も全くなく、所在地について、君が記録しているのは本当の番地ではない。あれは郵便屋の都合で勝手に変えた嘘の地名である。本当の地名で記録しないと意味がない、と云った主張をし始めたのである。――要するに住居表示実施前の所番地で記録せよ、××台3丁目などと云う歴史を無視した所番地を記録しても意味がない、と云うのだけれども、では、本当の地名はどうすれば分かりますか、と聞くと中学生には入手閲覧が難しそうな地図を挙げるので、すっかり辟易してしまった。
 院生時代には明治初年に廃絶した寺院の所在地を調べて『土地宝典』などにまで手を伸ばしたが、正直、中学生当時の私には無理難題と云うべきで、結局その人とは1度電話で話したきりで、名前ももう覚えていない。誰にその人の電話番号を教えてもらったのかも思い出せない。
 それから237頁17行め~238頁14行め、

 妙亀塚は和楽路屋版の地図では、浅草石浜町十番地の南にあると表示されている。最新の日地/【237】出版の地図を開くと、石浜町が消滅しているのがわかる。石浜町は東半分を橋場に、西半分を清/川に持ってゆかれて*5、地図から蒸発してしまっている。そして最新の地図は妙亀塚の存在を表示/するほどの余裕がないから、どこにも出ていない。
 とにかく和楽路屋ほど東京地図の製作に熱情を注いだ会社はない。しかし、百点満点というこ/とはない。和楽路屋が怠ったのは、肝心の地形の起伏を地図にとり入れなかったことだ。これは/東京を見るとき致命的なことなのだが、和楽路屋は思想の欠如をあふれる熱情と愛情とで補った/と評価しておきたい。
 日地出版の地図の欠陥は何ごとにも不徹底であることだ。地形の起伏をとり入れている区もあ/れば、無視している区もあるという気まぐれ仕事なのである。たとえば文京区の地形の起伏はす/べて残らず克明に波線*6で描いているのに対し、新宿区については全面的に無視している。千代田/区は紀尾井町と皇居については起伏を記しているが、麴町、九段、駿河台の起伏についてはまっ/たくふれていない。これは思想の欠如などではなく、手ぬきである。情報量も至って少ない。最/新地図なら、東京地図出版の『東京のみどころ・改訂新版区分地図付』がいい。これは最近では/かなり上の部にランクづけられる。


 私の父は昭和20年代、埼玉県北部で過ごした少年期、家には小説など文化的な書籍はなく、家の周囲はひたすら平らで海も山もなく、小遣いも少ないので分県地図を買っては未だ見ぬ地方へ思いを馳せていた。それが日地出版の地図だったので、ここで貶されているのを見ると倅の私も複雑な気分である。しかし、他社の物と比較した上での日地出版の地図への思入れではない。巨人戦の放送しかない地方の人間が巨人贔屓になってしまったのと同じような按配である、いや、あんまり似てないか。
 昭和40年代以降、父は主として昭文社の地図を買っていたので私も近くの本屋に並んでいた昭文社の地図を買っていたが、中学以降は国土地理院の 1:25000地形図、高校以降は 1:10000 地形図を使っている。縮尺が同じでないと歩くときに時間と距離の見当が付けられなくて困るからである。
 カバー裏表紙折返し、右下に茶色のゴシック体でごく小さく、下詰めで、

【表紙写真・図版】
カバー=『煙突の見える場所』(五所平之助監督/スタジオ8プロ=新東宝/昭和二十八年)より
本表紙=『緋牡丹博徒 お竜参上』(加藤泰監督/東映/昭和四十五年)より
前・後見返し=『東京都区分地図帖コンパクト版』(和楽路屋/昭和三十八年)より

とあるが、見返しは縦縞の透かしのある赤い用紙で、表紙見返しには台東区の北東部、裏表紙見返しには品川区の南東部が、冨田氏の鉛筆による書入れごと茶色で刷られている。(以下続稿)

*1:ルビ「こうがい」。

*2:ルビ「す き や 」。

*3:ルビ「きさがた」。

*4:「不自由」に傍点(ヽ)あり。

*5:以上7字に傍点(ヽ)あり。

*6:ルビ「なみせん」。