瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

周防正行『シコふんじゃった。』(7)

 昨日の続き。昨日は途中で、過去の記事の誤りを訂正するために脇道に逸れてしまったが、ここで再び、冒頭の「比較文化研究室」の場面に話を戻そう。
 壁の本棚の一隅、例のコクヨのスクラップブックと並んで「Seven Stars」がカートンで置いてある。

 穴山冬吉教授(柄本明)は院生の川村夏子(清水美砂)に声を掛けて外すように言うのだが、そのとき振り向いた川村夏子が持っている大型の画集は、若桑みどり 日本語版監修『甦るミケランジェロ システィーナ礼拝堂』(昭和62年・日本テレビ放送網)で、段ボール製の外函は廃棄されているようだ。若桑みどり(1935.11.10~2007.10.3)は私の大学にも出講していたので、受講しようと思えば可能だったのだが、取らなかった。モグリでいろいろな人の授業に入り込めたはずなのだが、当時の私は、図書館巡りとか、サークルとか、家の買物とか、そんな詰まらないことで忙しくしていた。
 大きな窓から柔らかな光が差し、壁の高いところまでを占めている、主として洋書が詰まっているらしい本棚。古びた本がぎっしり並んでいるところに、教養を感じる。いや、人文科学系の学部の校舎、特に研究室は、やはりこうでないといけないと思う。反対に、理系の校舎や研究室は、新しければ新しい方が良いと思うけれども。
 こういった、あらゆる言語文化の基礎となる古典を踏まえた上で、新しいものを引き出して行く。そんな在り方に、憧れていた。そこで学部では江戸時代を研究することにした。日本の古典が総まとめのような按配で咲き乱れているように思ったからである。出版業の興隆により平安時代の作り物語、鎌倉時代の軍記など、それまで写本で流通していた古典が広く流布するようになり、大部の漢籍も和刻本で読み易い形で全国に広まった。そこに、古典を踏まえた新作が加わる。和歌や俳諧が広く行われ、古典を踏まえた藝能が文字を解さない人々にまで『伊勢物語』や『源氏物語』、そして物語としての日本史の知識を定着させて行った。だからここを押さえれば、前にも、後にも自在に往来出来る、と考えたのである。しかしながら、結局江戸時代に足踏みしたまま、前にも後にも殆ど踏み出せないままになってしまったのだけれども、私には文系凋落の一因は、こうした文化の積み重なりを研究者自身が蔑ろにしたところにあったのではないか、と思われるのである。
 だからこそ、この「比較文化研究室」のような場所を宰領したい、と云うのが私の脳裡に見果てぬ夢のように巣くっていて、しかし博士論文の準備をさせられている頃には、今となってはそれは幻想に過ぎないと思って足を洗う気持ちになったのである。――いや、院生時代に私が産休代講で派遣された女子高2校の図書室が、時間が止まったような、昭和30年代の古びた本が普通に棚に並んでいるようなところで、本当に本好きの生徒しか出入りしない、落ち着いた、居心地の良い空間だった。裏表紙見返しに挟まっている貸出カードに手書きで記入された過去の生徒のクラス・番号・氏名を眺めていると、長い伝統の中で育まれてきた校風に親しく接しているような気分にさせられたものである。しかしながら、2校とも、その後、刷新が図られて書棚は低く、新しくなり、古い本は廃棄されて、新しい、見た目は綺麗だけれども内容は軽く薄くなった本に替えられて行ったのだった。もう、私などの居場所は、それこそ、山奥の廃校や廃墟で、本当に時間が止まってしまった図書室や書斎にしかなさそうである。大学教授の旧蔵書も、今や稀覯書であっても大学図書館には引き受けてもらえず、book off などに場違いに並んでいると云う、御時世なのである。
 教授の席の後方、壁際にデスクトップのパソコンがある。上に載っているモニタは15インチかそこいらで、ブラウン管だから画面の幅と同じくらい、後ろに突き出している。高校時代、山岳部を追放されてから入り浸っていた理科系の部活でテトリスをやっていたパソコンもこんな感じだったろう。それから、数年後、修士の頃に先輩の紹介で研究機関に短期間アルバイトに行ったのだが、黒い画面に緑色の枠と文字が出る「桐」でデータの整理をして、やはり Windows 95 ではなくこのタイプのパソコンだったろうと思うのである。
 穴山教授と山本秋平(本木雅弘)の対話の場面、教授の後ろに『CLIFFORD GALLERY』と読める画集らしきものの丸背の背表紙が見え、山本秋平の後ろには青と赤の背表紙の『現代用語の基礎知識』が見える。
 ドアの外の、木製の上り階段に腰掛けて『甦るミケランジェロ』を眺めていた川村夏子が、研究室から出て来た山本秋平に声を掛ける。
 この『甦るミケランジェロ システィーナ礼拝堂』は、この映画のオープニング、穴山教授の授業風景に照応している。

穴山:

Les lutteurs sont de jeunes hercules roses qui semblent tombés des voûtes de la Sixtine et appartenir à quelque race dont il n'existe que de très rares spécimens.


 下手なフランス語で申し訳ないが、今のは、ジャン・コクトーの、“MON PREMIER VOYAGE” の中の、相撲についての一節だ。
 コクトーは、世界一周旅行の途中で日本に立ち寄り、相撲を見た。彼を国技館に案内したのが、堀口大學だ。
 堀口大學は、コクトーの文章を、こんな風に訳している。

 力士たちは、桃色の若い巨人で、スィクスティーン礼拝堂の天井画から抜け出して来た、類稀な人種のように思える。
 ある者は伝来の訓練によって、巨大な腹と、成熟しきった婦人の乳房とを見せている。
 いずれのタイプの力士も、髷を頂いて、可愛らしい女性的な相貌をしている。
 不動の平衡が出来上がる。やがて足が絡み、やがて帯と肉との間に指が潜り込み、廻しの下がりが逆立ち、筋肉が膨れ上がり、足が土俵に根を下ろし、血が皮膚に上り、土俵一面を薄桃色に染め出す。


 堀口大學の訳文は穴山教授の朗読から文字起しした。原文及びシナリオや小説とは違っているかも知れない。この訳文朗読に合わせてBGMが掛かって、誰もいない相撲部の部室、土俵、まわしや戸棚、写真や賞状、トロフィーや盾、鍋や神棚、そして歴代部員の名札が写り、音楽も盛り上がって来たところで土俵を写して、そこで朗読が終わると「シコ」とまづ白の毛筆で出て、次いで「ふんじゃった」そして最後に白で句点を打つ。
 Jean Cocteau(1889.7.5~1963.10.11)の “MON PREMIER VOYAGE (tour du monde en 80 jours)” の原文は、Google Books で閲覧したGallimard 社版(1936年・231頁)の170頁。Chapelle Sixtine(スィクスティン礼拝堂)は Cappella Sistina(スィスティーナ礼拝堂)のフランス語読み。
 コクトーの訪日については、その後、次の本が出ている。

 これも図書館再開の砌に手にして見たい。(以下続稿)