瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(264)

・中村希明『怪談の心理学』(16)
 9月1日付(262)の続きで、「なぜ赤マントの怪人になったか」の節の最後を見て置きましょう。34頁13行め~35頁8行め、

 ではなぜこの時期にトイレの赤マントの恐怖デマが成立したのだろうか。
 しのびよる戦争の不安は、まず感受性の鋭い子供たちのルーマーに現れて、戦時色が強/【34】まるにつれて、しだいに増幅の度を強めていったのではなかろうか。
 なぜなら、昭和十一、二年の「恐怖デマ」とまったく同じ情景が、それから八年後の東/京大空襲によって現実のものになったからだ。赤マントの怪人ならぬ、稀代の殺人鬼小平/義雄は、当時海軍衣糧廠のボイラーマンをしていたが、挺身隊の女子学生を強姦殺人し、/黒こげの屍体がゴロゴロしている焼け跡の防空壕にその死体を隠して立ち去った。
 だとすれば、昭和十一、二年に小学校の女子トイレで広がった「赤マント」の恐怖デマ/は、来たるべき大戦によって焦土となった東京の姿を、あらかじめ映してみせた鏡だった/のかも知れない。


 「戦時色が強まる」と云うのなら、昭和11・12年とするより昭和14年の方が当て嵌まりそうですが、それはともかく、中村氏はここで、昭和20年(1945)5月25日に始まる小平事件の小平義雄(1905.1.28~1949.10.5)を持ち出します。海軍第一衣糧廠のあった品川区は、前日の5月24日に空襲に遭っていました。そして5月25日は青山などが焼け野原になった山の手空襲がありました。その「黒焦げの屍体がゴロゴロしている」状況を、北川幸比古の談話にあった「あちこちに死体があって軍隊、警察がかたづけたという」状況と、重ね合わせている訳です。
 しかしながら、これも、確かに北川氏の談話に依拠する限りでは成り立ち得る想像ではありますが、当時の報道や、他の人の回想などを幾つか集めて見た上では、やや特殊な証言であったと云わざるを得ません。北川氏以外にも「あちこち」で人が襲われて、何人かが殺されたと云う証言はあるのですが「軍隊、警察がかたづけたという」程の犠牲者が出たと云う話は、今のところ他に見付けておりません。すなわち、やや極端な例を捉えて、これを「空襲」下に生まれた「稀代の殺人鬼」に類えている訳です。
 しかし、やはりおかしいのは、北川氏の談話が「あちこち」つまり人々は屋外で赤マントに襲撃されたと思われるのに、中村氏はこれを「学校のトイレ」、ここでさらに限定して「小学校の女子トイレでひろがった」と決め付けてしまうのです。いえ、北川氏も「誰れも学校の便所に入れなくなってしまった」と言っていて、便所でも何かあった風ではあるのですが、中村氏はこの便所の方ばかり強調して、何故か「あちこち」の方をスルーしてしまいます。スルーしているのに「戦争の不安」が「現実のものになった」と云う文脈では、ちゃっかり「あちこち」に「黒こげの屍体がゴロゴロしている」イメージを活用するのです。
 かなりの御都合主義と云うべきでしょう。
 さて、ここで中村氏は急に「小学校の女子トイレ」と云い始めるのですが、これについては48頁2行め「白い手の恐怖と思春期の性不安」の節が、中村氏がこのように決め付けた理由になっていると思われますので、追って触れることにしたいと思います。