瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

津留宏『一少女の成長』(2)

 本書再刊の事情、いや成立の事情も、3~4頁「改訂新版まえがき」に述べてある。末尾、4頁12行めに下寄せで「六甲山寓にて  津留 宏」とあり1行分空けて13行め3字下げでやや小さく「昭 和 五 十 五 年 六 月」とある。
 3頁8行め~4頁5行め、

 大学を終えて、ある女子専門学校の教師になり、一生徒が書いた回顧録をみたとき、意外に早/くこれを試みる機会に恵まれたと感じた。わたしはこの生徒が提供してくれた多くの資料と約一/年間専心取り組んだ結果を『一少女の成長を見る』というわたしの処女出版として世に出したの/である。当初は多くの先生や先達から一応ほめられたが、その割に本は売れず、そのうち出版社/側の事情もあって二、三年で絶版になってしまった。もう三十年も前のことである。旧版の本は/わたしの手許にも今は一、二冊しか残っていない。
 ところが今年に入って東京のナッメ社から突然、この本を若干改訂し新装して再び世に出した/いという熱心な申し出を受けた。何分、三十歳を過ぎたばかりの頃のわたしの著書だし、文章も/【3】表現ももう古臭くなっているが、他面こうした一人の子の成長記録を、これほど長期にわたって/集め丹念に分析した研究はその後も出ていないし、資料そのものの優れた価値は今も失われては/いないと思ったから、あえて承諾することにした。新版に際し漢字を少なくしたり改行を多くし/たりして読みやすいものにしたが、文章にはあまり手を加えていない。むろん資料については全/く元のままである。


 ナツメ社の「熱心な申し出」の元になったのは6~7行め「「あとがき」まで書いてくださった/立教大学の心理学教授村瀬孝雄氏の御推挙」で、238~246頁「改訂新版あとがき」に拠れば、村瀬孝雄(1930.8.25~1998.4.15)が、教鞭を執っている大学の、240頁9行め「学生に読ませたいと思」ったが、10行め「どの図書館にも本書を置いているところがない」ことをナツメ社田村正隆社長に、13行め「何の気なしに話したところ、知らぬ間に再刊行の話が進み」とのことである。
 ところで「先生や先達」と云うのは、例えば「6・3教室」5巻1号(1951.1、新教育協会)75頁「津留宏著「一少女の成長を見る」」を書いた牛島義友(1906.1.19~1999.8.20)、日本生活教育連盟 編「カリキュラム」28号(1951.4、誠文堂新光社)25頁「「一少女の成長を見る」 」を書いた広岡亮蔵(1908~1995)、他にも私信等で讃辞を贈った人がいたかも知れない。「その割に本は売れず」とは、大学の教育学部や教員間の研究会などで纏めて購入するような動きがなかったことを示唆していよう。
 ただ、30年後の村瀬氏と違って、当時は教材として扱うには少々生々しい印象を与えたかも知れない。村瀬氏は当時の読者の一人であるが、238頁6~15行め、

 本書に私が初めて出会ったのは、今を去ること実に三十年近くも昔である。私の持っている本/のうしろには、一九五三年(昭二十八)十月十五日と当時記した文字が残っている。まだ日本の経/済復興も途上にあった頃で、紙質も装丁も貧しいものであった。当時私は心理学科の四年生であ/ったが、とり立てて発達に関心があったわけではなく、ただ個人の具体的な成長が描かれていて/読みやすそうな手頃な本であるといったほどの気持で入手したように記憶している。読み始めて/みると、この書のいわば主人公ともいうべき登喜子が、私よりもわずか一歳年長なだけで、しか/も私と同じ東京育ちのため、述べられている諸々の状況や経験には私自身のと共通する点が多く、/いわば私自身の過去をたどる思いもあって一気に読み通してしまった。もちろん著者が、ぼう大/な資料を適切に取捨選択されて、見事に登喜子の青年期までの道筋を再構成された成果に感銘を/受けたことは言うまでもない。‥‥

と回想しているように、240頁4行め「二十歳台のはじめ頃」と若く「一少女」と同世代であったことで「先生や先達」とは受け止め方が違ったようである。
 尤も、私が生々しいと感じるのは「一少女」本人に仮名であるけれども「登喜子(ときちゃん・照国)」と云う名が与えられ、その他の登場人物も全て仮名なのだけれども、ヒサコ・アヤ子・那子・静枝・ゆり・健二・達男・正雄・良明、赤堀・秋山・天野・綾・池内ふみ子・石井・石田・岩崎・宇井・江口・奥田・小沢・加納・佳山・川本・喜多・小森・佐上・末松・菅・高橋・中野・中村・林・藤井・藤本・別所・堀・本多・牧山・松木・南・宮崎(宮ちゃん)・柳沢・山口・山田・吉木など、如何にもありそうな名前が与えられ、一部はポンとかトン・山ヒスなどと云う渾名まであるので、仮名であるような感じがしないのである。しかも、現在であったら他人には見せない、本人の許諾があったとしてもそのままでは掲載出来ないであろう資料が活用されているためで、昭和の頃の私なら驚かなかったかも知れないが、今は例の個人情報保護法による規制が頭の中に刻み込まれているからかも知れない。もちろん、当時は仮名にしさえすれば、現在のように僅かな手懸りから所謂《身バレ》してしまうこともなかっただろうが。
 余談であるが、女子高講師の頃、東大の某研究所(明治新聞雑誌文庫ではない)にて明治40年代のある新聞の原紙を閲覧したことがあった。目的の記事は見付けられず、代わりに乃木希典の語った怪談が記事になっているのを見付けたのだが、それは後にブログ「古新聞百物語」に2015年12月12日「乃木大将の妖怪談【1909.8.7 東京日日】」として紹介されてしまった。してみると「東京日日新聞」らしいのだが、――夏に青山墓地の辺りで子供が遊んでいたところ、行商人風の男が道を尋ね、1人の女の子が案内したところ、男に墓地内の植込みに連れ込まれ云々、と云う記事があった。なんでこんな記事を未だに覚えているかと云うと、その小学校高学年くらいの少女の氏名年齢、さらに1段分の、決して小さくない、ぱっちりした目の女児の顔写真が添えてあったので、仰天したのである。当人も家族も近所の人も、こんな記事が出たら一体どうなるのだろう、どうもしなかったのだろうか、とにかく現代の感覚で過去のことを判断すると誤るのではないか、と思ったのである。しかし、だからと云って民俗学で判断されても私には腑に落ちない。そして、過去が良かったなどとは思わぬことだとも思ったのである。私はこういうことは隠蔽せぬ方が良いと思う。でないと美しき誤解をするお目出度い輩が後を絶たない。現在の出来事ではないのだから、別に隠さずにおけば良い。隠して差障りのないことばかりにしていると、本当に過去の日本が差障りのない綺麗事に満ちていたかのように思い込んでしまう連中が、現に、いる。そして、現在の感覚で断罪せねば良い。ただ、支配層に色濃く残存しているらしい昭和の感覚には、早く退場願いたいものだが。(以下続稿)