瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

杉村恒『明治を伝えた手』(4)

 昨日の続き。
 解説1章めには、本書からは割愛した職人について述べたところがある。168頁17行め~169頁12行め、昨日の引用の続きになる。

 そして一人ひとりの仕事の中にある本当に専門的な知識については、私にはまだまだ分らないことが多くあった。/【168】カメラはただ伝達の手段だけに使うのではないということは分っているのだが、専門家とそうでないものの、物の見/方、それ等がただ単なる〝不可解な目撃者〟でなくなるために幾分かの勉強はしたつもりである。この写真集を私は/〝目撃者の提出〟という形で読者に見ていただきたいと思う。
 しかし、時間をかけてつき合うことの楽しさが、私にもあったようだ。この写真集にはもれたが、ある手漉き紙の/老職人とは何べんも会っているうちに子供か孫のようなつき合いになった。
 シャッターの音が気にならなくなる程切りつづければ、後は静かな対話だけの世界、どんな作業、どんな仕事の中/でも自由に撮らせてもらえるだけの姿勢をつくってくれる。私はいまでもこの老職人に大変感謝している。雪のしん/しんと降る夜、それは大雪の夜で、交通機関が止まってしまい、帰ることも出来ず、こたつの中で一杯機嫌で聞かせ/てもらった〝さんさ時雨*1〟の渋いのども忘れることが出来ない。
 市井の生活の特にこれといって取り立てていうこともないこの人達の生活。毎日のなりわいの中で育てて来た技術。
 それは地味ではあるが静かに光りかがやいているし、そういう人達の魂が私を打つ。それが私をして職人を撮る位/置に移行させたのである。


 民謡「さんさ時雨」を歌っているから奥州、宮城県岩手県であろう。東京近辺と京都周辺に範囲を限ったために「もれた」のであろう。なお、昭和47年(1972)刊行の杉村 恒写真集『沖縄の手 伝統工芸・人と作品の撮影を始めていたかどうか、始めていて収録しなかったとすれば、それも「手漉き紙の老職人」と同じ理由からであったろう。
 とにかく、これは特に濃密な交際のあった例だが、他の職人たちにしても、すぐに撮影させるような訳ではあるまいから、1人1人にそれなりに時間が掛かっているはずである。東京新聞社社会部 編『名人 〈町の伝統に生きる人たち〉のように新聞の連載であれば、新聞社の社会的信用もあり、近々紙面を写真入りで飾ることを約束出来るわけだから、取材にも、フリーランスよりは気軽に応じてくれそうである。
 或いは「あとがき」202頁3~5行め、

 いろいろな助言を与えて下さったNHKの稲垣吉彦氏、陶芸家の青木正吉氏、作家の渡/辺喜恵子氏、ミセス編集部の平田文子氏、月刊COOKの編集長北村方志氏、内田洋行の/弓削直登氏、朝日新聞社斎藤良輔氏、また先輩友人諸子に厚くお礼を申し上げます。


 稲垣吉彦(1930.9.10~2013.4.8)はNHKアナウンサー、青木正吉(1918~1979)は八丈島に移住して八丈焼を始めた陶芸家、渡辺喜恵子(1913.11.6~1997.8.8)は直木賞作家、斎藤良輔(1911.5.20~1996.11.27)は玩具や言語遊戯の研究家、そして「ミセス」の平田氏、「月刊COOK」の北村氏、内田洋行弓削氏は職人の存在を知らせ、紹介の労を執ったのではあるまいか。「ミセス」と「月刊COOK」或いは「朝日新聞」に杉村氏の連載があれば、いや連載とまでは行かなくとも記事や写真があれば、と思うのだがなかなか調べに行く機会が得られそうにない。いづれ少しずつ、杉村氏の写真集を借りて来て、この辺りをもう少し明らかにして見たいと思う。
 それはともかくとして、解説「職人の世界」の2章めにはグラビア頁では取り上げられていなかった団体について、また3章めにグラビア頁の補足となる記述がある他、4章めではベトナムの職人を取り上げている。以下、どのような団体・個人が取り上げられているか、確認して置こう。(以下続稿)

*1:ルビ「し ぐ れ」。