瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

越中の思ひ出(2)

 昨日の続き。
 私が初めて越中を訪ねたのは学部を卒業した3月上旬、卒業旅行と云うほどではないが、青春18切符でサークルの友人たちの実家に泊めてもらって、まづ卒業後北海道で就職することが決まっていた者の実家に、恐らく最後の機会になるわけだから泊めてもらったのである。名古屋の近郊の農村で、東海道線の駅からかなりの距離があったが歩いて行った。大体の場所は分かっていたのだが、今のように携帯端末がある訳でもなく、事前に検索して場所を特定することも出来なかったから、殆ど当てずっぽうで歩いて辿り着いたのは本当に偶然で、今になって思えば「駅まで迎えに行ったのに」との先方の勧めに従って置けば良かったと、冷汗の出る思いである。しかしそれでも何とかなってしまったのだから恐ろしいものである。今、開催の是非が取り沙汰されている大運動会をやろうとしている連中も同じような楽天家たちなのだろう。――午後に着いて、近くの土地の名前にもなっている古寺に連れて行かれたり、ぶらぶらしているらしい親父さんに蝮の粉末を服まされたり、保険の外交員だったと思うがスーツ姿で帰って来たお袋さんに挨拶したり、翌朝はお袋さんに駅まで送ってもらって、東海道線米原は何度も乗り換えで降り立ったことがあったのだが、初めて北陸本線のホームに向かう。東海道線の下りは「芦屋」行で、1月17日の阪神大震災で神戸の辺りが不通になって、漸く芦屋まで通じたところだったのである。
 当時私は院試を受け終えたところで、出身大学の院と、別の大学の院を受けていた。別の大学院には合格し、出身大学の結果を待っている中で旅行に出ていた。別の大学も受けたのは、もちろん滑り止めだけれども、そっちの教授の方が、当時の私の専門に近かったのである。だからそっちに行っても良いかなと思って指導教授に相談すると、両方受かったらこっちに来なさい、とのことだった。大学のランクが下になる方が宜しくないとの考えだったようである*1。そして、もしそう云うことになったら、その教授は指導教授の大学の先輩に当たる人なので、自分からも断りを入れるけれども君も鄭重に手紙を書いて辞退する旨報告しなさい、と云うことになっていた。
 今、どこで出身大学の院に合格したことを知ったか、その記憶がない。自宅に電話して合格通知が届いたのを確かめたのだろうけれども、何処から電話をしたのかも覚えていない。福井駅で乗り換えの合間に改札を出て、駅前のポストでその教授宛の、白い封書を投函したことは覚えている。しかしその手紙は何処で書いたのか、事前に切手を貼った封筒を準備して、車中で書いたようにも思うのだが、26年も前のことは既に細部が曖昧模糊としている。ただ、福井平野に入ってどんより曇っていたこと、福井鉄道の電車を見たことは覚えているのである。
 石川県に入って、小松の辺りだったか、下校して来た高校生が大挙乗り込んで来て、忽ちセーラー服の女子生徒たちのお喋りで車内が賑やかになったのだが、関西人よりも関西弁らしく話そうとしているように聞こえて、何だか不思議な気分になったのである。――これも今にして思えば、高校生の方言をはっきり聞く機会を、その後私は持たないままであるような気がして来た。今、女子高生は方言なんか話すのだろうか。地方を旅するTV番組を見ていても、アクセントの違う若者と云うのは滅多にお目に掛からない。
 金沢を発つとじきに越中に入ってしまう。学年末考査の時期か何かで、まだ暗くなるにはかなり間があったが、高校生なども乗って来なかった。県境を跨いだせいかも知れぬ。そして高岡で下車して、城端線に乗り換えたのである。
 友人の住んでいる町には、鉄道が通っていない。だからもちろん車の免許を早々に取っていて、車で高岡まで迎えに行く、と言ってくれていた。しかし私は青春18切符越中まで来ようと云うくらい鈍行列車で旅をするのが好みなのだから、折角なら城端線にも乗って、若干、高岡よりも近くなる程度なのだが、城端駅に迎えに来てくれるよう頼んでいたのである。
 城端行の列車は余り混んでいなかった。私は旅中、メモを細かく付けていて、可能であれば自分の乗った車輌に何人乗っていて、何処の駅で何人下車して何人乗車したか、などと云ったことを書いたりしていたので、まづ自分の乗った車輌の乗客をざっと見渡してみたのだが、老人や少数の学生などがいる中、紺のコートを着た、ロングの黒髪の、相当な美女が、ちょっと離れたボックスシートに掛けていることに気付いたのである。
 こんなことを書くと、余程の美女かと思われそうだが、綺麗な人だったと云うくらいの印象で、目鼻立ちなどそんなにはっきり覚えている訳ではない。そもそも、ざっとどのくらい乗客が乗っているのか見回したときに気付いたので、そんなにまじまじ見た訳でもない。では、何で覚えているのかと云うと、それには理由があるのである。
 少しずつ乗客を減らしながら、しかし件の美女は同じ席にずっと掛けたままで、やはり曇っていたように思うのだけれども礪波平野を南下して終点の城端駅に着くと、どこで連絡したのか覚えていないが、友人は改札に立って私を待っていた。と、私よりも先に下りていた例の美女が改札を出ると、挨拶をして二言三言、言葉を交わしたのである。友人と左程身長も変わらない*2、すらりと長身で私らと同じ年恰好の、美女なのである。
 その後で私も改札を出て友人の車に向かいながら、さっき話していた女の人は高校の同級生か何かなのか、と早速問い掛けてみたのだが、友人は「まぁまぁ」みたいな感じで言葉を濁して、私もそういう機微にはとんと疎い方なのでそれ以上追及せずに、そのままになったのである。
 しかし、26年を経た今になって思い返してみるに、あの美女は、友人の元彼女だったのだ。私はその一部始終を聞かされたことがあったのだが、とにかく鈍いのでまるで気付かなかったのである。もしあの当座、私が鋭く勘付いて無遠慮にその話を振っていたら、後は随分気不味い空気になって、――或いは私の越中訪問も、この一回で、終わっていたかも知れない。(以下続稿)

*1:その後、研究会などで件の教授と接するうちに、それだけではなかったらしいような気がして来たのであるが、またそれは別の話である。

*2:友人と私は同じくらいの背丈。――正確には覚えていないが、高いとも低いとも思ったことがなかった。