瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

越中の思ひ出(1)

 当ブログで、未来社版『越中の民話』や、石崎直義 編著『越中の伝説』を取り上げている理由は、そのうちに分かると思いますが、これらの本を見ているうちに越中に出掛けたときのことを色々と思い出したのである。
 私が越中に出掛けたのは3度、学部を卒業した春と、修士の院生時代の夏、そして博士の院生時代の秋である。3度ともサークルの友人の家に泊まらせてもらった。
 若い頃は、高校時代は山岳部だったし、あちこち旅して歩きたい希望があったのだが、国内でも行かぬ地方が多いまま生涯を終えることになりそうだ。九州には2014年9月28日付「浅間山の昭和22年噴火(1)」に述べたように行ったことがない。
 四国は高知県に学会発表・調査旅行・見学旅行で3度行って延べ10日ほど滞在しているが、他の県は学会発表の帰りに、当時私は呑気にしていたので鈍行を延々乗り継いで帰ったのだが、琴平駅で乗り換えに1時間ほど時間があったので、金比羅宮の奥宮まで石段を1段抜かしで上って、途中の茶店の小母さんに荷物を預けるように言われたのだが、時間に余裕なく預かってもらっても茶の一杯も注文出来そうになかったので断って、荷物一切合切抱えて往復したのである。
 中国は萩に父の会社の保養所があったので小学生の頃に2度ほど出掛けている。そのとき津和野にも行ったがもちろんそんな興味のない頃だったので柵のない水路を綺麗な水が流れる、武家屋敷の並ぶ盆地の町と云う印象しかない。広島県は母方の祖父母の出身地なので、祖父の墓参りに行ったことがある。2017年8月11日付「大澤豊監督『せんせい』(4)」に述べたように、転校しなければ小学校の修学旅行で広島市に行くはずであった。短期間、塾で教えたときに『黒い雨』を読んで以来、原爆のことは随分調べて、当時のような抵抗感は全くなくなって、今は行って見たいくらいなのだが、結局出掛ける機会はないままである。岡山県には高知県での学会発表の往路、四国に渡ると遅くなると思って夕方、岡山駅前の旅館に投宿した。周囲が区画整理のようになっていたのであの旅館も今はなくなっているだろう。山陰には殆ど行ったことがない。津和野くらいであろうか。いや、20歳までに日本海を見たのは萩の辺りだけだったように思う。その後、20代30代に石川・富山・新潟に出掛ける機会があって、佐渡にも2度渡ったが、島根県の出雲、鳥取県兵庫県京都府日本海側、山形県秋田県にはついに行かず終いになりそうである。
 北海道は高校の友人が札幌近郊の私大に進学したので1度泊まりに行った。そのとき、別に観光地に行くでもなく、周遊券新十津川、留萌から増毛、上砂川、様似と鈍行列車を乗り継いで過ごした。東北地方の太平洋側は、会津にサークルの合宿、仙台に調査旅行で出掛けたくらいで、岩手県青森県は北海道の友人を訪ねた折に急行八甲田で往復通過しただけである。
 私の住んだことのある兵庫県静岡県、神奈川県、東京都とその周辺、関東甲信と東海、関西の各都府県には大抵出掛けている。
 島にも、先に挙げた佐渡の他には、伊豆大島と三宅島、淡路島くらいしか行ったことがない。沖縄にも、海外にも行ったことがない。イタリアに行かされそうになったことがあるけれども断った。
 思えば、観光旅行のようなことは殆どしていない。地方に行っても鈍行列車で出掛けて友人の実家に泊めてもらって、鈍行列車で帰って来ただけで、何処にも立ち寄らなかったし、その余裕もなかったし、金も持っていなかった。土産も殆ど買った記憶がない。
 当人が食うや食わず、とは言わないが、土地の名産品に全く手を着けずにいるのに、何で人にそんなことをせにゃならんのか、と思ったのである。かつ、金は節約しているが時間だけは掛けているから、長時間持ち歩いているうちに傷むかも知れない。いや、観光地に出掛けて何処にも寄らずに新幹線や特急、飛行機で帰って来るならともかく、例えば高知の帰りには大阪に泊まって中之島図書館に寄ったり、ついでの用事を幾つもくっつけていたから、正直邪魔なのである。
 しかし、5月12日付「和楽路屋『東京区分地図帖コンパクト版』(2)」に書いた、分県地図を買い集めて踏みもせぬ各地の風景に思いを馳せた父の少年時代と違って、今はカラーテレビがあり、ネットで写真も動画も見られるし、地図だけでなく航空写真いや衛星写真、それからストリートビューまであって、いよいよ私は旅行に出掛けようと云う気持ちが失せている。私が見たいのは妙に観光地化した地方や、庭木がなくなっていよいよ家が建て込み高層建築の増えた都会の住宅街、或いは人気のまばらな地方の町ではなく、観光立国とか云われる前の観光地、緑滴るような都会の細い路地、そして人と物が動いて活気のあった時期の地方の町なのである。それこそ古い映画やTVドラマやドキュメンタリー、2019年12月9日付「芥川龍之介旧居跡(20)」等に取り上げた、平成初年に Lyle Hiroshi Saxon が撮影した街歩きの動画を見れば、それで良い。今そこに行っても、求めるものは得られない。
 さて、院生時代、春に東京、秋に地方で開かれる学会の大会に、春はほぼ皆勤、しかし秋は4回しか行かなかった。その4回とも、学会発表をさせられたので、何故東京の大会で発表させてくれなかったのか、まぁ地方の大会は発表希望者が少ないのでその辺りの配慮だったのかも知れぬ。うち1回は本当に数合せのための発表だった。研究会で会う教授たちが会場校近くの温泉を探して、さらにもう1泊、ホテルに泊って帰るなどと話しているのを別世界のことのように感じていた。
 私はと云えば、時間だけはあったから鈍行を乗り継いで会場入りして、復路には(往路にはそんな余裕はないから)幾つかの図書館に立ち寄って、大阪や名古屋では2017年5月18日付「高梨みどり『Order-made』(1)」に述べたような、カプセルホテルより安い、妙な旅館やらホテル(?)やらに泊って、明らかに堅気でない人物と一緒に風呂に入ったり、ぬるくて白っぽくてとろみのある風呂に入ったり、部屋にテレビがないことも多く、今でも持っていないがスマートフォンタブレットもなく、別に美味い物を食べるでもなく、宿では本当に何もすることがなく、実際何もせず、朝、目が覚めるともういたたまれなくなって早々に会計を済ませて退出し、立喰蕎麦か、名古屋ではモーニングサービスで朝食を済ませて電車に乗ってしまう、と云う按配だったのである。
 だから、越中に3度行って、合計で5泊ぐらいさせてもらったけれども、いづれも落ち着かぬ滞在で、何処と云って名所も見ていないのだが、流石に3度に出掛けているから、それなりの印象は今でも心に刻まれているのである。(以下続稿)