瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

長沖一『上方笑芸見聞録』(5)

横山エンタツの出生地(2)
 それでは連載の第【8】回、「花菱アチャコ」の「二」節めに戻って、藤沢桓夫が寄越した手紙を見て置こう。67頁2~8行めに1字下げ、前後1行空けで引用されている。

 ……四月号の文中に出て来るエンタツ氏の後輩の将棋のH七段というのは、むかし菊池(寛)/さんに可愛がられた萩原淳八段(数年前に現役引退)だろうと思う。『将棋年鑑』によると尼崎/生れとある。但し、僕の記憶によれば、萩原八段はたしか甲陽中学出身。そして、年も僕と同/じ明治三十七年生れ。エンタツさんより約一回り下だ。従って、萩原八段を軸に推理すると、/エンタツ氏もやはり尼崎生れが本筋で、そして彼の家の近所に萩原家があり、そして二人は同/じ小学校だったのではないだろうか。……というのは、甲陽はエンタツ氏の十三歳頃にはまだ/存在せず……


 これで連載の第【4】回、「横山エンタツ」の「二」節めが昭和48年(1973)の「四月号」に掲載されていたことがはっきりする。それを八月号の第【8】回に「唐突だが忘れないうちに」取り上げた訳だが、やはり「唐突」である。書籍化のために改稿しておれば、当然ここは「横山エンタツ」の「二」節めに移して「唐突」にならないように調整されていただろう。
 私が初出を確認したいと思う理由は、こういう記憶を辿り指摘を受けて不明もしくは曖昧だった事柄が少しずつ明らかになって行く過程が窺えるからである。書籍にする際、それが最初から分かっていたかのように調整されてしまうこともしばしばだが、実はそういう調整をすると他の、関係なさそうに思われる箇所との間に齟齬が生じたりするもので、その奇妙な箇所は、やはり初出を見ないことには、どうしてこうなったのかが、分からない。
 結局、十全な状況で過去を振り返り、そして文章化出来る人などまづいないので、永遠に、この、初出と刊本の食い違い、過去、或いは最近書かれた同じ事柄に関する記述との齟齬など、検討すべき点は浜の真砂のように尽きず、ここに別の人の記憶と対照させればさらに食い違い、或いは別人の誤った記述に引き摺られて記憶を捻じ曲げてしまったり、そこに研究者であっても3人の回想のうち2人だけを読んで合理化したりすると、第4の珍説を提示するようなことにもなってしまう。
 とにかく私たちはなるべく多くの材料を集める必要がある。その上で私なぞは、余計な解釈は余りしないで、註釈的な検討を加えてそれを使える状態にまで持って行くこととしたいのである。
 いや、本書は初出のまま再録されているらしいから、その点はクリア(?)である。しかし、今度は不体裁のままなので、例えば花菱アチャコについて、「花菱アチャコ」の章だけを見て、他にもかなり重要な記述が後で追加されていることを見落としてしまうようなことも、起こり得るのである。
 それはともかくとして、ここに名前の出て来た棋士萩原淳(1904.10.11~1987.12.14)だが、「日本将棋連盟」HP「棋士データベース」の「萩原淳/Kiyoshi Hagiwara」に拠れば、『漫才読本』が刊行された昭和11年(1936)に八段になっている。すなわち『漫才読本』の準備段階ではまさに「H七段」であった訳だ。引退は昭和39年(1964)で9年前。「上方笑芸見聞録」連載が終わる頃、昭和49年(1974)11月に九段になっているが、当時はまだ「萩原淳八段」である。
 私立甲陽中学(現、甲陽学院中学校・高等学校)は大正6年(1917)創立で萩原氏は1回生、従って藤沢氏の指摘通り横山エンタツは中学の先輩ではない。
 この引用に続いて67頁9行め、

 以上は四月十日の来信である。さらに四月二十四日の便りで、

として、藤沢氏の2通めの来信を紹介する。それについては次回に回すこととしよう。(以下続稿)