瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤堀又次郎伝記考証(40)

 『書物通の書物随筆』第一巻『赤堀又次郎『読史随筆』』の「解題」の「赤堀又次郎について」については、ほぼ点検し尽くしたと思うのだが『読史随筆』そのものの解題と、第二巻『赤堀又次郎紙魚の跡』』については、出身大学の図書館が遠からず卒業生の利用を再開してくれるらしいので、それを待って確認することとしたい。
 ここで、昨日(28日)の稿を書きながらつらつら書き連ねたことを添えて、来月に備えて早寝をすることとしたい。(以下続稿)

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 私は江戸時代の国文学を専攻したので、森銑三の本は幾らか読んだのだが、余り好きな人物ではない。
 西鶴についての議論で、野間光辰や暉峻康隆が相手にしなかったのは戦前、堅実な業績で知られていた先達が、戦災でそれまでの蓄積を失った挙句に珍妙な説を唱え出したことに当惑し、学界のボス格がまともに取り合って傷口を大きくすることがないよう配慮して、あのような対応になったのではないか、と思っている。
 私は小出氏が勤務した出版社の先輩に当たる人物の知遇を得ていたのだが、その人の森銑三評は辛辣で、よく読んでいるから確かに物は知っている、しかし要するに研究になっていない、と云うものであった。しかし一部の研究者が随分持ち上げていますが、と言うと「利用したかったんでしょう」とにべもない。
 この「利用」は、一つには情報源として、もう一つには、官学やら学界の権威やらに反撥・反感を抱いている人々の所謂「叩き棒」として、と云う意味があるようであった。
 それより以前、森氏の著書に接し始めた頃に、柳田守『森銑三』を読んでいた。それほど森氏の著書に接していた訳ではないが、一々腑に落ちたのでその後、森氏の本に淫することなく過ごした。
 森銑三説を黙殺した親玉である野間光辰を批判する際には筆鋒鋭い、まさに森氏を「叩き棒」にしていた谷沢永一も、この本に関しては歯切れが悪かった。大分経ってから(まだ谷沢氏が健在だった頃だが)このことを知って、認めざるを得ないのだろうと思った。
 女子高の同僚が圓朝で卒論を書いた人で、某落語家の名前で出た本の下請で落語の演目の解説を書いたりしていたのだが、あるとき、私が当時調べていたことで森銑三の好い加減な調べ方に文句を云うと、如何にも苦々しげに、私も卒論で圓朝を書いたときに森銑三圓朝に関する文章を読んだけれども、いけません。と圓生みたような駄目出しをした。まぁ私がほとほと困ったと云った態で愚痴をこぼしていたものだから調子を合せてくれたのかも知れないが。
 戦後の森氏はエッセイストで、雑誌「ももんが」は何冊か見たことがあるが明治の聖代を理想視して近年の風潮を慨嘆する保守爺さんみたいなエッセイを書いていて、著作集にはこういう文章は入っていないが、その片鱗は著作集に入っている、特に戦後の文章のそこここに見受けられるので、さてこそと思ったことだった。
 ある程度纏まりがついてしまうと、実はかなり偏った調べ方、と云うか「読み」をしているのに、文章力で読者には疑問を感じさせないような(そして当人も疑問を感じていない)按配でうまく纏めてしまうのである。
 そして判断の基準が、かなり感情的なものに拠っていること。なつかしいか、なつかしくないか、で判断している。そして、森氏がなつかしいと思っている人物について、なつかしくない逸話があるとこれを排除しようとする。好もしいと思っている人物に好もしい話があると無批判に受け容れてしまう。要するに自分の好き嫌いが先にあって、それに合せて取捨選択してしまう。全ての善き事は堯舜の所為に、そして悪き事は全て桀紂の所為に、みたいな按配で、これは明治の理想化と同じ精神構造だろうと思った。要するに研究ではない、エッセイなのである。
 明治の新聞や雑誌を読んで、ある人物や書物について気付いたところが幾つか溜まってくると、その自分が気付いたところを紹介するようなエッセイを書く。関係する人物にも触れて読物としてのアクセントを付ける。
 だから読み易い。なつかしい人物や書物を、好もしく描いている、そして突き詰めるべきところを無邪気に放置して短時間で読み通すのに適当な長さに纏めてあるから、時間があれば幾らでも読める。そして書いた物の数は相当な分量になっているから、毎日読んでも何年も掛かる。
 しかしながら、私のような人間には、情報源以上の意義があるように見えない。私は以前、一部で優れた考証と褒められている、ある小説のモデルとなった出来事について、新聞や日記、回想を使って纏めた森氏の文章が、相当に恣意的な解釈で、小説と新聞記事には相当の乖離があるにも関わらず、森氏にとってなつかしい人物が書いたその小説に書かれていることを全て真実と信じ込んで、新聞記事との齟齬を全くと云って良いくらい問題にしていないことに驚愕したことがあった。いや、そこも問題なのだが、森氏がモデルとなった出来事についての日記や新聞記事を紹介した後になっても、実はその小説が殆ど真実を書いていないことに、森氏の文章を参照しているはずの研究者たちが全くと云って良いくらい気付いていないことにも驚かされた。森氏が乖離に気付かず、小説も新聞記事も全て真実であると信じ切って下した折衷案的な解釈に、そのまま従っているのである。
 私が先入主にこだわるのはこうしたところからである。いや、もっと前、学校の怪談に無邪気に興ずる同級生たちに疑問を持ったところからなのだけれども、これがその傾向にいよいよ拍車を掛けたのかも知れない。尤もらしい人が尤もらしいことを云うと、人は無批判に受け容れてしまうのだ。最近私が問題にし(ようとし)ている某怪談作家も、地元とか出身校とか云うことで、かなりの与太をかましているのに一向にそのことが問題にならず、そこそこ売れていて本人のキャラも立っているので編集者や一部の研究者までもが持ち上げて、何だかある種、権威みたいになって来ている。前首相が射殺された原因となった辺りが有耶無耶にされている一種の権威主義と同じ、何だか嫌な感じを覚えるのである。いや、それはともかくとして、話を戻そう。
 さて、普通に考えて日記や新聞が正しければ小説の方が虚構となるはずで、この両者を折衷しようなどとは考えないだろうと思うのだが、その普通考えないはずのことを何の疑いもなくさらりと例の穏やかな文章力で書いているものだから、うかうかと納得させられてしまったとしか思えない。
 尤も、「斎藤精輔氏の自伝」は巷間全く流布していない本を紹介したエッセイで、そもそも研究ではないのだから、研究になってない、などと難癖を付けようとは思っていない。まぁ私なぞ自分のやっていることが研究かどうかよく分からずにやっているのだからそんなことが言えた口ではない。それはともかく、森氏の文章は、人の読んでいない、見ていない書物や、忘れられつつある人物について書いているのを、情報源として利用すれば良いと思う。しかし、森氏の解釈を鵜呑みにするのは危険である。これははっきり警告して置く。原典に遡るべきで、その原典も森氏の説明通りに読んではいけない。
 母校の博士課程の院生の頃、私は奥文鳴のことを調べていて、森氏が戦前に発表したメモを参考にしたのだが、原典とは全く違っているので驚かされたことがあった。西鶴や上記の小説でもそうだが、多くの人は森氏の一見穏当そうな解釈に疑問や不満を持たないで読み流してしまうのであろう。しかし、実態は、泉鏡花の『新泉奇談』についての恣意的で感情的な批判などを見ても、かなり危ういと思うのである*1
 ところで今、手許にある『明治人物夜話』190~201頁「三遊亭圓朝」と云う文章を見ると、森氏は予め、紹介する「資料の一つ一つに考究を加へて、圓朝その人を研究しようとするのでもない」と断っている。そうすると同僚の「いけません」は、解釈の間違い(文意ではなく好悪の面での)が多いのか、それとも、それが如何にも価値判断を加えない紹介を装いながら、実はそこにかなり恣意的な取捨が加えられていたかの、いづれかであろう。久しく会う機会もなかったが、今度それを確かめたいと思っている。

*1:『新泉奇談』の顚末は、当ブログを始める前に少し調べていて、記事にしようと思っていたのだが、結局泉鏡花は全くと云って良いくらい扱わずに来てしまった。当時私が集めた材料も今や何処に埋もれているか分からないような按配である。しかもその後、「古本斑猫軒」店主のブログ「斑猫軒雑録2013-05-03「泉鏡花『新泉奇談』をめぐる議論の経緯(1)2013-05-18「泉鏡花『新泉奇談』をめぐる議論の経緯(2)2013-06-16「泉鏡花『新泉奇談』をめぐる議論の経緯(3)2013-07-09「泉鏡花『新泉奇談』をめぐる議論の経緯(4・終)」が公開され、これに当時私が集めた材料は網羅してあるから、もう何もしなくても良さそうだ。ただ、斑猫軒店主は世評に遠慮気味に書いているが、この論争のときの森氏の姿勢には、森氏の本質の一面が、実によく顕れていると思う。