瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

祖母の蔵書(099)歌舞伎

 私が初めて会った頃の祖母は、杖を突きながらだけれどもスタスタ歩いていて、まぁ矍鑠としたものだったが、しかし段差は苦手にしていて、年末に長男宅に行って、年明けもしばらくゆっくり過ごして帰って来るのだが、往きには私もお供をして、当時各地の駅で設置が進んでいたエレベーターの位置を確認して、祖母に付いている家人に合図を送りながら、出来るだけ待たせずに乗ってもらえるよう気を配ったことだった。そして私らは1泊か2泊で年内に戻って来る。祖母が戻ろうと云う気分になった頃、父からの連絡を受けて家人が東京駅の新幹線ホームまで出迎えに行くのである。
 娘(家人の伯母)の遺産で購入した、駅まで平坦で祖母の足でも5分と掛からないマンションに住んで、駅までの間に掛り付けの病院や薬局、ショッピングセンターや本屋、美容院やクリーニングショップ、花屋、銭湯などが揃っていて、祖母の生活はその範囲で完結していた。
 そんな按配だったから、普段電車に乗って出掛けるようなことはなく、自由に移動出来た頃の祖母がどのような生活をしていたのか、残された本からは良く分からない。話も私は断片的にしか聞いていない。
 相撲が好きだったことは聞いているが、見に行くようなことがあったのかは、聞いていない。
 しかし、芝居の方は、六代目を見たことを少し誇らしげに話していた。――いや、この例では昔過ぎるか。
 相撲の本や雑誌は多くないが、芝居の本は、少なからずある。
 戸板康二宇野信夫の本、特に戸板氏の本は多数あるので別に纏めることにする。忠臣蔵(赤穂事件)の本も別に纏めよう。
坂東三津五郎『歌舞伎 虚と実』昭和四十八年十月二十五日 初版発行・一八〇〇円・玉川大学出版部・210頁・上製本(17.7×16.7cm)函入

 書影にある帯はない。
講談社文庫 か 23 1 河竹登志夫『作者の家 黙阿弥以後の人びと〈第一部〉昭和59年10月15日第1刷発行・定価400円・276頁※ 帯あり「今月の新刊」書影に同じ
・関容子『中村勘三郎楽屋ばなし』一九八五年一月 一 五 日第一刷・一九八五年二月二十五日第三刷・定 価 一四〇〇円・文藝春秋・283頁・四六判上製本※ 帯あり、赤地に白抜きの文字。裏表紙側に井上ひさしの推薦文。
 以上3冊は寝間の本棚より。次の1冊は何処にあったか覚えていない。
・文春文庫 や 13 4 山川静夫勘三郎の天気』1994年10月10日 第1刷・定価408円・文藝春秋・221頁※ 帯あり「今月の新刊」書影に同じ
 歌舞伎関係の本は仏間の硝子棚にも何冊かあるのを見ている。遠からず、ここに追加して行くことにする。(以下続稿)

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 ところで、私は一昨年自転車で赤に変わろうとしていた信号を渡ろうとして(脚力が有り過ぎて)物凄いスピードが出てしまい、渡った先の暗がりにいた人にぶつかりそうになったのを避けるために自ら転んで、咄嗟に右を守って左の膝を強打して、その外出の用事は何とか済ませたのだけれども翌日は欠勤してタクシーを呼んで最寄りの整形外科に行き、レントゲンには何も出ないが多分骨折だろうと、紹介状をもらって鼻中隔彎曲症以来のMRI撮影に臨み、見た目はどうもしていないが、脛の骨に罅が入っている――骨折と確定した。
 私の今住んでいる家は家主が老親の隠居所として建てたらしく、台所が低く、階段に手摺が付いている。これが大いに役立った。出勤は5月の連休くらいまで松葉杖を突いて、しかし当時は電車も空いていたので困らなかった。今だったら出勤時間をずらしてもらわないと難しいかも知れない。
 それはともかく、このとき私はバリアフリーの必要性を痛感したのである。松葉杖の突けない自宅内は摺り足で、スリッパを履いていられないので厚手の靴下を履いて、足を持ち上げずに摺りながら移動する。ちょっとした敷居を越えるのが一仕事である。
 それまでの私は、エレベーターがあるのだったら駅の狭い階段を更に狭めてエスカレーターを設置する意味があるのか、と思っていたのだが、そこで考えを改めた。なくても構わないとも思うが、やはりあった方が良い。困りごとは自分のことにならないと意識出来ないのである。――私が当ブログに指摘していることも、私は訂正してもらわないと困ると思っているのだが、困っていない人には雑音くらいにしかならない、いや、検索しても最も充実しているはずの当ブログが全然ヒットしないような按配だから、雑音も何も、全く届いていないのかも知れない。誤った説明を基に自分の考えを進めてしまっている人には騒音と云うことになるだろうし。それで、広報用に Twitter を始めたのだけれども、私には何だか面倒で、どうも続かない。
 例によって話が脇に逸れてしまったが、とにかく、祖母は晩年の20年ほど階段を上り下りしなくても良い環境で(私が知っているのは後半の10年ほどだが)元気に過ごしていた。僅かな段差がなくなることで動ける範囲が違って来る人は少なくないはずである。なくせる段差は、なくして置こう、と、しみじみと思ったことであった。